永い言い訳

永い言い訳

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山本周五郎賞受賞、直木賞候補作、本屋大賞4位。「スクリーンが待っている」でこの人はすごい、とつくづくと分かった。小説にも映画にもなんと才能のあることか。

妻をバス事故で亡くした作家が、共に事故で亡くなった妻の友人家族と関わる中で、妻との関係性を顧み、生きていく力を取り戻す物語。と書いてしまうとあまりにあっさりしてしまうなあ。

主人公は作家であるので、例えば妻の事故の知らせが来た時、実は自分は不倫の真っ最中であったこととか、自分の不遇時代に生活を支えてくれた妻に、売れっ子となった今、複雑な感情を抱いていたこととかは横へ置いて「つらい出来事に出会い、打ちひしがれながらも前を向こうとする一人の作家」をさりげなく演じることも、描き出すこともできる。

一方で、同じ事故で亡くなった妻の友人の夫は、妻の死を受け入れることができずに身も世もあらず悲しみ嘆き、子どもたちの世話に孤軍奮闘し、振り回されている。そんな彼の子どもたちの世話を引き受け、少しずつ子どもたちとの関係性を築く中で、作家は不思議な充実感に包まれていく。

子どもたちへの愛情に気づいた彼は、亡き妻が、実は自分をもう愛していなかったと知ることで自暴自棄となる。そこから全てを放り出すのだが、子どもたちの父の事故を知り、また彼らを助けようとする。そして、そこから、妻との関係性をもう一度、心の中で整理し始めるのだ。

子供の頃、子供は純真だとか純粋だとか言われると、何を言ってやがるんだ、と思ったものだ。子供だって嘘を付くし、取り繕うし、人を騙しもする。全然純真じゃないのに大人が勝手にそう見てるだけだ、馬鹿だなあ、と思っていた。でも、いまは、わかる。子供が嘘をついたり取り繕ったり人を騙そうとすることも含めて、やっぱり子供は純真だし純粋だし、真剣に真っ直ぐに生きている。大人も同じように嘘をついたり取り繕ったり騙したりして、それはもう、後戻りができないほどに身に染み付いてしまっているのだけれど、それでも、時として子供の純粋さに出会って、はっと気がつく時がある。気がついた瞬間、自分が真裸になって、もう、嘘も取り繕うも騙しもできない、ちっぽけな存在に成り果てる。でも、だからこそ、そこから歩き出せることもある。

人が生きるということを、むき出しに、なんの飾りも忖度もなしに明らかにした時、本当のことに気がつける。人を愛するとか、大事に思うとか、とにかくなんとか生きていこうと思える気持ちは、そこから湧き出てくる。そんなことを思いながら、この本を読んだ。

ふと気がつけば「女のいない男たち」も、この本も、妻や恋人を失った男たちの物語だ。だけど、随分と毛色が違って見える。一つには、子供がいるからなあ。子供がいなければ、妻を失った男はいつまででも打ちひしがれてどんよりしていられるけれど、子供は待ったなしだ。すぐお腹を空かせるし、眠くなるし、病気もする。おちおち悲しむ暇も与えてくれない。そして、それが生きるってことだ、と思う。

この作品は映画化されている。主人公は本木雅弘が演じたんだって。なるほど。ぴったりだなあ。