72 梨木香歩 毎日新聞出版
「歌わないキビタキ」の前作がこれらしい。毎日新聞「日曜くらぶ」連載エッセイの収録である。2018年から2020年あたりなのでコロナ禍に突入してから事態が深刻化していった頃である。この時期、梨木さんはお父様の介護をし、見送られた。私は彼女より少し前に父を失った。同じ時期に同じような思いをしていたのだな、としみじみする。
八ヶ岳の山荘での日々や温暖化による自然の変化、日々の生活で気づいたこと、コロナ禍の恐ろしい政治状況、そして老人を見送る病院や介護の体制など、すべてが身に覚えのある話であった。静かな言葉を選ぶことの多い梨木さんが、時に強い言葉で嘆き、怒る文章もあって、その気持ちがずしんと心に響いた。
沖縄の佐喜眞美術館を訪れた話。丸木位里・丸木俊夫妻の「沖縄戦の図」を引き受ける美術館も記念館も沖縄にないのなら作ればいいと美術館設営を志した館長の佐喜眞道夫氏。美術館建設用地として理想的な土地は米軍基地の中にあった。那覇市の防衛施設局で土地返還を申請するが、三年間「佐喜眞さんの要請は米軍に伝えてありますが、米軍は返還を渋っています」と言われ続ける。しかし、それは嘘であった。伝えるどころか会議にすらかけられていなかった。そこで佐喜眞氏は宜野湾市役所を通し、在沖米国海兵隊基地不動産管理事務所のポール・ギノザ所長に直接面会、設立をすぐに快諾される。沖縄のささやかな願いを長期間邪魔し、屈服させようとしていたのは米軍ではなく、日本政府だったのだ。
お父様の最後の話。施設で誤嚥性肺炎を起こし、地元の病院に運ばれた。チューブで経鼻栄養を取り、バイパップというヘッドギアのようなものの付いた鼻口マスクで酸素と二酸化炭素のバランスを取る。外に酸素が漏れないようにしなければならないので締め付けが強い。言葉が発せない中、父親は懸命に口の当たりの痛みを訴えたが、慰めるしかなかった。ところがある日、副看護師長が謝りに来る。下の歯が皮膚を突き破り、穴が開いていたことに昨夜当直看護師が気付いたというのである。それで下の歯を抜きたいというのだが、それはさらに体にダメージを与えるのではないかと彼女は反対した。なぜ今まで気が付かなかったのか。看護記録には一昨日にすでに「貫通あり」と記載がある。では前からわかっていたのではないかと問うても、それがいつなのかはわからないとしか答えない。内科医と名乗る医師がすみませんでした、とただ謝っただけである。
結局、梨木さんは父親を自宅に引き取る決意をし、介護の技術のあれこれを学び、訪問医療、訪問介護のスタッフを集めて自宅に戻る。「おかえりなさい」と皆に声をかけられ、心底嬉しそうだった父親は、さあ、これからだ、と皆がいったん引き上げた数時間後、梨木さんと二人きりになったときに静かに旅だったという。
父と母を見送った私にはこのエピソードは他人事とは思えない。父は施設で倒れ、病院に担ぎ込まれたが、いったい何が原因であったのかは最後まで明らかにはならなかった。ただ、朝、ベッドの下に倒れているのが見つかったという報告だけである。グループホームの大人数の夜を介護士一人で見ていれば、様々な問題も起きよう。食欲も旺盛で丈夫だったはずの父は、何も食べられなくなり、あっというまに逝ってしまった。
母は、自宅で一人暮らしをしていて何度目かの圧迫骨折を起こした。九十代でも十分安全だという手術を受けるという話になったのだが、年末なので年明けまで手術はできないうえにその病院には置いておけないといわれ、近所の老人病院に転院した。インフルエンザが猛威を振るっていたので面会は禁止となり、母は、ただただベッドの上に置かれ、誰とも会えず話もせず世話もされずに放置されているとメールで訴えてきた。その後、元の病院に戻って手術を受け、無事成功したが、歩行訓練が始まる中、コロナに感染し、コロナも快癒したものの合併症で敗血症を起こし、メールも打てなくなり、亡くなってしまった。コロナウイルスが排出されなくなった後に面会に行くと一人で寝かされており、看護師に病状を聞いても要領を得ず、どんな治療を施しているのかも、何度聞いてもよくわからなかった。腕一面に包帯がまかれ、血がにじんでいたのでどうしたのかナースステーションで尋ねると、腕に褥瘡が出来たのでその部分を切除しましたと説明はあったが、どれくらいの褥瘡でどのように切除したのか、それは麻酔をしたのか、痛みはないのか、などなどに回答はなかった。ただ、必要な処置をしたという説明だけが繰り返された。母は言葉を発することもできなくなっていた。
患者がどんな苦痛や痛みを感じているのか、何を求めているのか。それをわかろうとする姿勢が病院にはない、と感じていた。感じていたが、遠方でなかなか面会に行けない私がたまに行って看護師にそれを求める権利があるのか…というためらいもあった。やるべきことはやってくれていたのだとは思う。だが、それは患者の心や気持ちとは別のところにあったように思う。母はつらがっていた。私はそれを十分にすくい取って理解してあげることはできなかった。終わってしまった人生に、今、あれこれ思い悩んでも得るところは少ないのかもしれないが、母は寂しかっただろうし苦しかっただろうし悲しかっただろうとは思う。だからと言って、梨木さんのように自宅に母を迎え入れることも私にはできなかった。今あの時に戻ってもそれはしないと思う。
梨木さんは闘病中であるという。私も持病を持っており、年々体力が落ちていくのをまざまざと感じている。死は遠くの話ではない。だからこそ、自分が死ぬとき、あるいは大事な伴侶が死ぬときに何ができるだろうかと考えずにはいられない。病院で十分な医療を受けて、でも、感染症に負けてしまったり、歯で唇に穴をあけられてしまうのなら、自宅で痛みと苦痛だけ取り除いで静かに弱って行きたいと思わずにはいられない。人は自然に枯れ、朽ちていけばいいのではないか。
深刻な病気の人だけが集まる病院の待合室で、疲れ果てていたはずの患者たちが、テレビに映る土井善晴氏の稲荷寿司のつくりかたの手際を見ているうちに、みるみる生気を取り戻したという話もあった。当たり前の生活、静かで穏やかな毎日の繰り返し。そういったものに私たちは癒され、心慰められる。
「誰の手も時間も取らず、一人だけで満ち足りてきげんよくしていられるというのは、実は最も尊い才能のひとつではなかろうかと思っている」という梨木さんの言葉に、私は深く深く頷く。残りの人生を、できるだけきげんよく、楽しく大事に過ごしたい。伴侶と二人で、できる範囲で暖かく日々の生活を過ごしたい。そんな決意と勇気を与えられる一冊であった。