99 宮下奈都 文芸春秋
東京で、大好きな人と結ばれて結婚してかわいい子供にも恵まれて、幸せなはずだったのに、夫がうつ病で(夫の)田舎に帰って専業主婦のくらしをする。近所付き合いや町内の運動会に巻き込まれ、東京の友達からは「ここだけの話」のメールが届く。そばにいないからこそ書ける虚実まじりあった愚痴と自慢話に付き合わされ、それに返事をしてしまう自分。夫は覇気がなく、妻のことをわかってくれず、子どもたちは地元になじめなかったり、発達に不安が残ったり。そんな中でふと沸き起こる淡い恋のようなもの。結局、自分は一人なのだ、と思い知り、でも、そうして生きていく。本当に、ごく普通の当たり前の主婦の話なのに、気が付くと心をわしづかみにされている。自分が何ものでもないことにいら立ったり、子どもが自分とは違う人間であって、自分が子供に願うことが子供にとってどんな意味があるのかわからなくてたちどまったり悩んだりすること、孤独に気付いても、何もできない状態に陥ること。夫にうまく思いを伝えられないこと、わかってもらえないこと。ぜんぶ、身に覚えがあるからだ。
下の子どもが小学生のころ、大学時代の友達から、毎日、家事と育児をして、外で仕事もしないで、それでどうやって自分を満足させられるの、納得しているの?と聞かれたことがある。その話をどこかに書いたら「なんてひどいことを言う奴だ!」と怒る人がいた。でも、私は腹なんて立たなかった。彼女の疑問は当然だと思った。私は転勤族の夫と結婚したので、数年おきに全国を転々としていて、継続的な就労は無理だったし、転校を重ねる子どものフォローは私の大事な仕事だと思っていた。私が家事、育児を支えることで夫は仕事ができるのであって、私なしではそれは無理だという自負もあった。私は、役に立っている。社会ではなく、家庭ではあったとしても。そう思っていた。でも、何ものでもない自分が寂しいと思うことはあった。彼女が私に尋ねたのは、彼女もまた、そうした問題に突き当たり、自分がどうふるまうべきかで戸惑っているからなのだろうと私は思った。女性は、結婚して子どもを持って、それでも何事かをしたいと思ったとき、同じ問題に必ず突き当たる。それは、今も…というか、今は私たちの頃よりもさらに深く、その壁と向き合わねばならないのだと思う。
自分が何ものであるかなんて、誰かに認められなければいけないものではない。という当たり前のことに私が気が付いたのは、ずいぶん歳を取ってからだ。この作品の中で、うつ病の夫はある夜「僕は社会の役に立たない人間だ」と泣く。主人公の梨々子は「大丈夫よ」とその背中を撫でながら、心の中ではこう思う。
社会の役に立っていない。それがどうした。社会よりももっと他に役に立つべき場所があるんじゃないのか。役に立たないのは梨々子だって同じだ。だけど、梨々子はそれで泣いたりしない。
(引用は「田舎の紳士服店のモデルの妻」より)
この文章に心を動かされている自分に私は驚いた。社会の役に立ってるかどうかに絶望する前に、私たちは夜泣きする子供をあやさねばならない、ご飯を作らねばならない、雨が降る前に洗濯物を取り込まねばならない。それがただの、とるに足らない、当たり前の、普通の家事や育児だとしても、それを誰かがしないと毎日が進まない。そして、それで一日が忙殺される。
社会で役に立ってるかどうかで泣いてる暇がなかったんだよね、主婦には。それでも自分が何ものでもないことに、誰にも褒められないことに、時としてイラついたり嫌になったりはする。子どもは子どもでそれぞれの個性を発揮して生きていく。それを自分は阻害していないか、もっと誘導すべきなのか、何をするのが彼らにとって良いことなのか、誰も教えてくれない中で模索しなければならない。そんな日々のことが、この物語を読むとわわーっとよみがえってくる。
どっこい、生きてる。と主人公は日記に書く。そう。そうやって、私も、私のような女たちも生きてきた。今振り返ってみると、それはそれでよい人生だったように思う。通り過ぎたからだろうか。誰にも認められなくても、何ものにもならなくても、私は私だし、その時その場でよくやってきた、と思う。だから、この本だって最後まで読める。この本の登場人物は、まだ若い。もっとこれからいろいろあるよ、と言いたくなりさえする。でも、ちゃんと本当のことが、実感が書かれた本だなあと思う。