純喫茶

純喫茶

140 姫野カオルコ PHP文芸文庫

「忍びの滋賀」以来の姫野カオルコである。姫野カオルコは、私よりは年上なのであるが、しかし、時代性、親との関係性などで非常に共感する部分が多い。こんな言い方はどうなのだろう、とためらいつつも、とても他人事とは思えないような作品を書く人なのである。そして、そんな彼女を、私は信頼している。

「純喫茶」は、今はもう見かけなくなってしまったものの象徴でもある。もちろん、今でも純喫茶は存在するが、いわゆる純喫茶、映画音楽やイージーリスニングが流れる、ナポリタンやピザトーストがメニューにあるような純喫茶は、今やもう絶滅危惧種である。地方の小さな町ですら、そんな純喫茶が駅前には必ずあったような時代の、子どもの頃の記憶が、この本のテーマである。無知であった子ども時代の記憶。思い出すとどこか苦しい、でも何がどう苦しいかを人に説明できない。そんなまごついた気持ち。

不和であった両親の間で、どうふるまったらよいかを常に模索していた子ども時代の記憶。好きだった場所に急に行けなくなった、その理由がわからなかった記憶。週刊誌で見かけたニュースから不意によみがえる、近所の知恵遅れの子がひどく踏みにじられた時代の記憶。50年に一度しか変わって行かない田舎の、時が止まったような風景。夏の楽しかったはずの、でも、それがどこなのかもわからない記憶。それらが淡々と描き出され、私は子ども時代に引き戻される。何もわかっていなかった、だけど、勘だけは鋭くて、何か問題があると感じる、でも、それが何なのか説明できない、ただ、違うもん!!と叫びたいようなもどかしさ。そうだ、子ども時代は楽しかった思い出や美しい記憶ではない。むしろ、わだかまった、まごついた、どう処理していいかわからないような気持ちにまみれた時代なのだ。

この本の最初の短編。シベリア帰りの、癇癪もちの気難しい父だが、外面は良い。よく客を連れて帰る。客にはカレーを出すのが定番である。カレーを食べてってくれと父は客に言い、母も、そうだ、食べてってくれと強く勧め慌ててカレーを作り出す。だが、客はもうすっかりごちそうになったから、と帰宅する。

 ぱたん、と戸が閉まった。ポンプから台所にかけてが暗くなる。父が舌打ちをした。そして母を罵倒した。
 あの炸裂の怒声を私は再現できない。記憶にないのである。なぜなら、あまりに非論理的な主張で、先の一句と次の一句が矛盾し、またその次も矛盾しているため、記憶にする系統となるものがなかった。
 カレーはもっと早く出さないといけない。客がいるのに流しに行っていては、客が母に遠慮することになる。女性はすぐ感情的になるからだめだ。言ったらすぐになぜカレーがしあがらないのか。客人との語らいには母もともにまじって話題を投げるべきだ。カレーはすぐに出せないといけない。
(「純喫茶」内「特急こだま東海道線を走る」より引用)

そうだ、これだ、と私は思い出す。私の父もこうであった。いうことに論理はなく、だが、それに口をはさむことは許されず、激高し、徹底的にこちらが悪いことにされる。矛盾し、論理が破綻していても「生意気いうな!」ですべてが覆され、さらに彼の怒りは高まる。いったい何に怒っているのかも分からなくなってくる。なぜなら、記憶する系統となるものが失われるほどに、論理が破綻しているからだ。そうか、こう表現すればよかったのか、とふと思っている自分に気づく。こんなに時がたって、あの時の自分が何に困惑していたのかが、今更のように明確化されていく。

その頃を思い出しながら今の自分を見返す文章に、はっとさせられる部分もある。

「ううん。事の大小とはべつに、なにか問題があっても、問題と対峙せずに放っておいて、いつのまにかごまかしてしまうところが私にはあるの。ほんとうにぐずぐずしているの」
 短い髪でスポーツを好めば明るいと、問題を放っておけばさっぱりしていると、よく人はまちがえるけれども、明は暗を直視するのである。前向きとはそういうことである。
(「純喫茶」内「夏休み/九月になれば」より引用)

これだ、と私は思う。なにか問題が起きたとき、それと真正面から対峙せずに、無かったことにしたり、気づかなかったことにしたり、後回しにしているうちに何となくうやむやになる。それでどこかほっとする。そんな一面が私にはある。そのことに、ある時期に気が付いた。その時から、問題と対峙し、逃げず、真正面から向き合えと意識的に自分に言い聞かせるようになった。なけなしの勇気を奮い、面倒だとか怖いとか思う気持ちを取り除こうとし、というよりもそういう気持ちが心の中にあることを直視するところから出発したいと願った。それは、矛盾し、破綻した論理の前に、どんなにこちらが正当性を見出そうと打ち砕かれ続けるという子供時代から積み重ねられた経験を乗り越えようという試みでもあったのだ。

姫野カオルコの文章に、私はいちいち頷き、そうだよね、わかるわかると言いたくなる。それは、たぶん似たような子供時代を経てきた者同士だけの共感である。苦しいというよりももどかしい、いらだつというよりも、途方に暮れる。強大な理不尽さの前で、自分が自分であり続けることへの困惑のような感情がわーっとよみがえるような感覚。

姫野カオルコをもっと読みたい。それは、私が私をもっと知るためのよすがになるだろう。