表裏井上ひさし協奏曲

表裏井上ひさし協奏曲

2021年7月24日

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「表裏井上ひさし協奏曲」西舘好子 牧野出版

一度、序章を読んだだけで読むのをやめている。重すぎて、読めなくなってしまったのだ。人を恨む思いには、負のオーラがどうしても付きまとう。ましてや、それが亡くなってしまった人に向かうものであったとしたら、それはもう、決して取り戻せない、報われることのない思いだ。その重たさにやられて、私は一度、読むのをやめた。

序章は、この本を書くに至った経緯が描かれている。そこにはどうしたって恨みつらみが込められてしまう。ましてや、そこにあるのは、元夫婦の、親子の、姉妹の確執である。重く深くどうにもできない苦しみが淀んでいる。読み手にある程度の元気が無いと、そこを乗り越えられない、とわたしは感じてしまった。

ところが、序章を終えて本編を読み始めると、スイスイと読み進められる。それはそうだ。夫婦の蜜月から、物語は始まるのだから。そして、この夫婦は、最初は何ものにも代えがたい戦友であり、同志であったのだなあと思い知る。そこには紛れもない愛情があるのだ。

あちこちに何度か書いたことがあるが、私は離婚直前の西舘好子さんにお会いしたことがある。仙台のこまつ座公演のあと、ロビーにいらしたのだ。彼女は、光り輝いていた。体からエネルギーが溢れているのが、離れたところからも感じられた。あれは、恋のオーラだったのだ、とわたしは後から思ったものだ。けれど、その恋も、うたかたのものに過ぎなかった。この本を書く時点で、その恋は通り過ぎた一つの出来事になってしまっている。

離婚後に西館さんが書いた「修羅の家」を私は読んでいる。そこには驚くべきことが描かれていた。井上ひさしは、妻を殴りに殴って作品を書いていた。殴り始めれば原稿がもらえるから、どうか殴られてくれと編集者に頼まれたことすらあるという。離婚直前、西館さんは井上さんに殴打されて気を失い、肋骨にひびを入れ、鼓膜を破り、ぼろぼろになって病院に担ぎ込まれている。離婚会見の時、彼女が大きなサングラスをかけていたのは、そうしなければ、殴られた痣があからさまに見えてしまうからだった。

この本では、その井上ひさしの暴力が、さらに克明に描かれている。ドメスティックバイオレンスだけでなく、モラルハラスメントもひどいものがあったことがわかる。そして、それを彼女は受忍していた。なぜなら、それは執筆のために、必要不可欠なものでもあったから。

私は、こまつ座の立ち上げの頃の芝居を何ぺんか見ている。「きらめく星座」「日本人のへそ」「イーハトーヴォの劇列車」。どの芝居も素晴らしく、とりわけ、西館さんにお会いした時の「イーハトーヴォの劇列車」は、感動のあまり、井上ひさしをこれからは信じよう、と思ったのを覚えている。

逆に言うと、そう思ったのは、たぶん、それまではわたしは井上ひさしという作家をそれほど信用していなかったのだと思う。「ブンとフン」が面白いと言われていたけれど、そんなに楽しめなかったし、当時購読していた「話の特集」の彼の連載も、ダジャレばかりでページが埋められているとしか思えず、読み飛ばしてしまっていた。こんなに深い物語を芝居の中で見せてくれるとは思ってもいなかったのだ。

井上ひさしは「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく」をモットーとしている人だった。この言葉は素晴らしい、とわたしは思う。これこそが、文章を書くものの目指すべきところである、と。そんな井上ひさしを信じたい、とその頃思ったのだ。「修羅の家」を読むまでは。

「修羅の家」は名もない出版社から出された。売れっ子作家井上ひさしに睨まれようとも、そもそもそんな大先生の原稿をいただけるはずもないような、小さな出版社から。それは、この本も同じだ。この「牧野出版」を、わたしははじめて知ったもの。大きな出版社が、この本を出してくれるわけがない。

しかし、この本は、井上ひさしへの恨みだけで描かれたものではなかった。読み通してみると、そこには確かに彼への愛情があり、才能を最も認め、支えたものにしか書けない真っ直ぐな言葉に満ちている。暴露本でも、恨み節でもない、ある作家の一面の真実の姿を残そうとする誠実さに支えられた本だ。

笹沢信氏が「ひさし伝」という本を書いているそうだ。いとうせいこうが書いたその本の書評を読んだ。それによると、井上氏自身が書いた「自筆年譜」と他の事実とのズレが多い、と本の冒頭に述べられているのだという。以下、せいこう氏の書評を抜粋する。

本人が書いた年譜と、他人の証言のずれ。むしろ事実の分からない部分をたどって読むことでこそ、井上ひさしの創作の秘密、癖、動機が見えてくるのではないか。
実際、多くの箇所で著者は井上の考え、生き方に共感を寄せ、彼であればこうだったろうと推測する。とすれば、この大著もまだ井上ひさしの一面に過ぎないのだ。別の誰かによる井上の、まったく別の面の伝記に向けて本評伝は重要な基礎となる。

(引用は朝日新聞2012.6/24書評欄「ひさし伝 笹沢信〈著〉評・いとうせいこうより)

2012/7/4