裸足でかけてくおかしな妻さん

裸足でかけてくおかしな妻さん

129 吉川トリコ 新潮社

「余命一年、男をかう」以来の吉川トリコ。また奇抜な設定を持ち出したぞ。仕事も居場所もない若い女性、楓が「先生」と呼ぶ小説家のマンションに転がり込み、そして妊娠する。先生は岐阜の田舎に家があり、妻もいる。産むならそこで産めばいいよ、と気軽に提案された楓。カバン一つ下げていくと、そこには40歳を過ぎた妻、野ゆりがいた。先生は二人を置いてさっさと東京の仕事場に戻る。不思議な二人の生活が始まった‥‥。

妻妾同居の物語。なんだこれ、と最初は呆れたが、二人の、さらには先生の母親をも含めた彼女たちのこれまでが徐々に明らかになっていく。それぞれがいろいろなものに絡めとられ、自分を生きられずに、それでも必死にここまで来た。見ないようにしてきたこと、考えないようにしてきたこと、逃げていたこと。妊娠期間と子どもの誕生がそれらをひっくり返す。

最初は、これ、太宰治みたいな無頼な作家の話かな、と思ったが、違う違う。これは渡辺淳一だ!と途中から思った。渡辺淳一は、母と娘両方喰っちゃうみたいな話を書いたりしてたよね。主人公と娘の関係を知った母は自殺し、娘は妊娠し、中絶し、どこかへ消えていき、主人公だけが人生をかみしめてる…みたいな、超絶自分勝手な話。この物語はそういった話を女性側から描いたみたいなものだ。「先生」の身勝手さ、わがままさ、何も考えてなさ、そのくせ自分だけが人生をしょってるみたいな顔つき、文学をひけらかす浅薄さ。それを「子どもみたいで可哀想」とまでつい思っちゃうことがある女性側の心理も含めて全部描いている。しかも、これは女性同士の友情物語ですらある。うそみたいだけど、そこにもちゃんとリアリティがある。そして、エンディングは渡辺淳一みたいに無責任ではない。みんなこれからの人生を生きていかなくちゃいけないから。

渡辺淳一や吉行淳之介は、もう時代に捨てられたのだなあ。男性に都合がいいだけの意思を持たないきれいな女性たちの物語はもういらない。男たちが好き勝手してもそれが通らない時代なのだ。まあ、かつてもそんな好き勝手出来てたわけではなく、ただその幻想にうっとりしてただけなんだろうけれどね。