足尾鉱毒事件 一人ひとりの谷中村

足尾鉱毒事件 一人ひとりの谷中村

149 永瀬一哉 揺籃社

「田中正造と足尾鉱毒事件を歩く」「田中正造翁日記抄」で、足尾鉱毒事件については読んできた。この本は、それらの知識をぐっと深め、広げてくれる内容であった。

足尾鉱毒事件といえば田中正造である。逆に言うと、田中正造という人があまりにも立派で高潔なため、彼だけに脚光が当たってしまいがちである。その結果、この事件をめぐる周囲の人々の姿が歴史に埋もれてしまっている。本書は、田中正造だけではなく、足尾鉱毒事件をめぐる様々な人々についての具体的な調査を記録したものである。谷中村強制破壊の現場にいた、当時子供だった関口コトさん、谷中村を廃村に追い込んだ最後の村長や下都賀郡長の末裔、田中正造と共に残留民に助力していた菊池茂の娘さん。それらの人々のインタビューや、強制破壊責任者で栃木県警のトップだった植松金章についての史資料調査がまとめられ、思いがけないほどの広がりを見せている。

足尾銅山は、創業者の古河市兵衛、東北の旧大名の相馬家、そしてかの渋沢栄一などが関わっている。相馬家の家令の志賀直道と古河市兵衛による共同経営として始まったという。この志賀直道は文豪、志賀直哉の祖父である。志賀直哉と父との確執はその作品にも描かれているが、主因の一つは足尾銅山にあったという。

結果的には何の役にも立たなかった過酷な鉱毒予防工事の事業を推し進めたのは近藤陸三郎という足尾の所長だが、この人は作家の船橋聖一の祖父である。一方、女流作家吉屋信子の父は、水没させられた谷中村のある下都賀郡の郡長であった。村民や田中正造らの主張と国策との間に立たされ、翻弄された哀れな父の姿を知っている吉屋信子は、船橋聖一を父の仇とも思い定めていたらしい。だが、その父こそが、谷中村の人々を北海道のサロマに開拓民として移住させ、困窮させた張本人でもある。現地調査で良い土地であったと報告したものの、実際には現地に足も踏み入れていなかったことが後に明らかになっている。このように、様々な人物が足尾鉱毒事件をめぐって絡み合っていることがわかる。

鉱毒に蝕まれた谷中村を水没させることとなったとき、最後まで残留した農民たちの過酷な姿が、その当時幼児だった関口コトさんの証言から垣間見える。非暴力主義者だった田中正造に対し、農民たちは彼ら独自の思想からそこにとどまり、田中正造や菊池茂はただひたすら付き添い続けた。彼らを駆逐した植松金章は、のちに栃木県を辞して弁護士となる。農民たちを強制排除しながらも、その時の田中正造の言葉に心打たれ、谷中村を一生の十字架として背負った後半生が明らかになる。また、途中から鉱毒事件から逃げ出したとされる菊池茂も、その後、普通選挙運動のリーダーとなり、ジャーナリストとして活動する。田中正造の闘いを書いた菊池茂の闘いを、今度は娘である斎藤英子さんが資料を集めて著作集として出版している。また、今も早稲田大学にある「雄弁会」というグループは、早稲田大学における「谷中村救済運動」が元となっているという。

足尾鉱毒事件という古い公害事件、国家が民衆を踏みにじった事件は、それを探ると様々な人や物事に突き当たり、広がって行く。そして、それは今も続いている。このような流れを一冊にまとめた本書の意義はとても深い。