49 松本俊彦 横道誠 太田出版
「世界一やさしい依存症入門」の作者と「なぜスナフキンは旅をし、ミイは他人を気にせず、ムーミン一家は水辺を好むのか」の作者による往復書簡集。おまけにギャンブル依存症問題を考える会の代表を招いての鼎談も収録されている。
依存症と一口に言っても、酒、たばこ、薬物から過食症やリストカット、ギャンブル、性的嗜癖などなど様々な対象がある。「うちの子は寝ても覚めてもゲームばっかりで、寝る間も食べる間も惜しんでずっとゲームしてるんです。依存症だから治療してください」という親はいても、それが「勉強」であったら治療は求められないと最初の方に指摘されていて、まさにそうだよなあと笑った。私なんぞは活字依存症患者である。子供のころは十分に本を与えてもらえなかったので、それこそむさぼるように家にあるあらゆる活字を読み漁り、外に出れば看板やポスター、そこらでもらったビラに至るまで舐めるように読みつくしていた覚えがある。図書館を知り、自分で稼いでからはほしい本はいくらでも買えるようになった。一時はそれでも本をがんがん買って読み漁った時期もあったが、今や落ち着いたものである(笑)。いつでも読める、いつでも手に入ると思えば症状は落ち着く。と言ったところで、お前、どんだけ読んでんだよ!と自分突っ込みするしかないのは知っているが。つまるところ対象物を禁止されたり滅多に手に入らない状態に置かれたほうが渇望感は強化され、依存が深まるものだと我と我が身を振り返って納得する。
薬物をちょっとでもやると二度と後戻りできないとか、人間やめますかとか「ダメ。絶対。」とひたすら危険を煽り、罪悪感を植え付けることは実は役に立たない。この本で繰り返し語られたハームリダクションという方法論の方が実はある程度有効であると改めて認識する。ハーム(害悪)をリダクション(減少)させること。つまりすっぱりやめるのでなく、健康被害が最小限にとどまる程度に専門家の指導の下で安全にわずかに依存させることから出発することの意義である。そういうのって、甘やかしだよなあと素人考えで思っていた部分もあったのだが、それは誤りであった。
檻の中にネズミを閉じ込めて、麻薬物質の入った水と普通の水が出るレバーを設置する。一匹で孤独に閉じ込められたネズミはひたすら麻薬入りのレバーを押し続けて薬物を摂取し、最後は死んでしまう。が、仲間たちとわいわいと檻の中に入れられたネズミたちは、麻薬入りの水もためしはするが、結局普通の水だけを摂取し続ける。孤立は依存を促進するが、仲間とのつながりはそれを回避する。だが、一方で、孤独に檻に閉じ込められ、それがいつ終わるとも知れぬストレスにさらされ続けるネズミは、薬物入りの水を飲むことで一瞬でもそのストレスから逃れようとし、それによって自分を支えようとしているともいえるのだ。死にたいほどのつらさから逃れ、少しでも生き延びようとする行動が、薬物入りの水のレバーの選択でもある。とすれば、依存症は、何かに依存することによって何とか生き延びようとする試みでもある。死んで開放されるのを一時的にも延期し、とにかく生きながらえるための方法でもある。
なんだか依存症への捉え方が大きく転換した気がする。依存症患者を不必要に支えてしまう家族を共依存のイネイブラーと断定し、見捨てろという方法論をよく見かけるが、それだけではどうにもならない。人は誰かと繋がることで助けられる。依存症患者が自助集団と繋がるように、依存症患者の家族もまた、家族の会と繋がることが必要だ。つながりは人を助けるが、それが強すぎるのも害悪となる。なかなか難しいよね。赤い羽根募金がなかなか集まらない地域のほうが自殺率は低いなんて話は、何かわかる気がしてしまう。
横道誠氏の母親はカルト宗教の信者で彼自身は宗教二世である。アルコール依存の背景にはそのPTSDもあるという。ガスホースで叩かれるという体罰を受けたことが今も心の傷となっているのだ。そういえば鶴見俊輔も子どものころ母親に酷い折檻を受けており、そのことが生涯忘れられないものであったというエピソードを思い出す。彼は後にうつ病も発症したことがある。人はいろいろなところに心の傷を持っていて、それを抱えながら何とか生きていくためにいろいろなものにすがったり、人と繋がったりしていく。自分の歴史を振り返っても、あれこれと思い出すことが多い。依存先が多いことが自立である、という熊谷晋一郎氏の言葉も引用されていた。
横道氏が早々に心のパンツを脱いでしまったので、思わず松本氏も勢い余ってパンツを脱いでしまったと書いているが、読み手も読みながらついつい心のパンツを脱ぎそうになってしまう(笑)。自分を振り返ったり、家族や仲間のことを思いながら、新たな理解を得られる一冊であった。