125 宮沢賢治 ちくま文庫
「銀河の図書室」を読んで、宮沢賢治を読み返してみたくなった。我が家の書棚にある宮沢賢治全集は、黄ばんで、しかも老眼には厳しい活字の小ささであった。が、頑張って「銀河鉄道の夜」を読み返した。子どものころに何度か読み、大学時代に一度読み返して以来の数十年ぶりの再読である。
思っていた以上に美しい物語であった。風景も、人物も、音や光もきらめいていた。まるで映画を見ているような感覚だった。
小学校高学年で私は宮沢賢治の物語をいくつも読んだ。よくわからなくて、何度も何度も読み返した覚えがある。何がどうわからなかったのかというと、賢治の物語に特徴的な自己犠牲や死が受け止めきれなかったのだ。ジョバンニがザネリを助けて死んでしまったらしいことも、グスコーブドリがみんなのために火山に残ったことも、よだかが飛び続けて星になってしまったことも、小学生の私には受け止めきれないことであった。そうやって誰かのために死ぬのは、本当に美しい、良いことだと考えるべきことなのか。自分の中に、そうなりたい、それをやりたいという気持ちを私は見つけることができなかった。どうしても納得できなくて、だからこそ、賢治の物語を幾度も読み返し、うーんと唸っていたのだろう。
この年齢になって読む「銀河鉄道の夜」は静かな美しい物語である。大事な誰かをどんなことをしてでも守りたいという思いが、気負うことなく自然に自分の心の内に見つけられるからそう思うのだろうか。かといって、自己犠牲が美しいとは未だに思えるわけではないのだが、人はそうやって助け合い、支え合い、時に身を投げ出すこともある、ということが子どものころよりは受け止めやすくはなっているようだ。どうしても、人はいつか死ぬけれど、それまでの時間、誰かを大事に思い、守り、助けあって生きて行けばいい。と思えるまでにはなったのだろう。賢治さんほどには献身的な人間に、私はまだ、なりおおせてはいないようだが、それでも小学生のころとは確かに変わってきたのだなあと改めて思う。
子どものころ読んだ本を読み返すのは楽しい。自分の歴史を振り返るようなところがある。そういうことをする年齢になったのか。