97 繁延あづさ マイナビ
現在、マイブームとなっている繁延あづささんの本。夫が見つけてきた。これは、どちらかというと写真家としての仕事で、長崎、天草近辺のキリシタン史跡を訪ねて歩くガイドブック的な本である。だが、その中に繁延さんらしいテイストが込められている。
私はクリスチャンホームに育った。親には、本人の意思を尊重したいから幼児洗礼を受けさせないという冷静さが一応はあった。それには感謝している。だが、すべての正しさが神によって定められるという掟は、家庭の中に厳然とあった。神を冒とくしたり疑問を持つことは罪だった。いつも何かを知りたがり、疑問ばかり持つ私にとって、神は疑問だらけの存在であった。が、うっかり質問しようものなら親から叱責され、呆れられ、二度とそんなことを言ってはならない、ときつく言い聞かされるのが常だった。
本好きだった子ども時代の私は、隠れキリシタンやキリシタン迫害の本を熱心に読んだ。今西祐行や長崎源之助、かつおきんやなどの作品だったと思う。キリスト教が、迫害されてなお、守り続けねばならないほどの正しさを持った宗教であるとどこかで確認したかったのかもしれない。だが、私はわからなかった。神が、ほんとうに人間を愛しているのなら、自分の描かれた踏み絵くらい踏んじゃったっていいよ、というはずではないのか?自分の姿を踏まれるくらいなら、殺されることを選べ、そんな人のほうが立派だと神は思っちゃうのか?痛い目に遭って、最後に死んでも自分を信じなくちゃだめだなんて言うのが神なのか?だとしたら、なんて怖いことなんだろう。厳しすぎないかい?…とは、ついに親に問うことができなかった私である。
そんな子ども時代、だから私はテレビで偶然見た「陽気なドン・カミロ」に驚愕した。イタリアの小さな田舎町の神父ドン・カミロと、共産主義者の町長ペッポーネの対立と友情を描いた映画である。ドン・カミロは敬虔な神父だが、神との対話において口答えしたり、言い返したりする。神への愛ゆえに、見つからないように神の教えに背くこともする。(そして見つかってまた神に叱られる)。ペッポーネは政治的な立場から教会のやり方を批判し、ドン・カミロと対立するが、子どもが生まれれば真っ先に祝福を受けに教会にやってくる。二人は実は深い友情で結ばれてもいる。そこに登場する神は人間味にあふれていたし、神父も町長も、それぞれの信条と行動に時に矛盾があり葛藤があり、同時に愛があった。それでもいいのか?そういうものなのか?
それから何年かたって、今度は遠藤周作の「沈黙」を私は読んだ。弾圧に負けて転ぶ(改宗する)キリシタンやバテレンが登場した。彼らもまた、矛盾に満ち、葛藤し、苦痛に負ける弱さがあった。そしてそれがそのまま糾弾も否定もされず、物語が描かれていた。それでもいいのか?そういうものなのか?とその時も私は思った。
それらの経験ゆえなのか、ほかの種々様々な要因のせいだったのか、とにかく私はクリスチャンにはならなかった。姉はクリスチャンになったので、親としては半分だけ成功だったということだ。
どんな宗教であれ、神という崇高な存在に自分をゆだねる人たちに、私は敬意を持つ。そのことに間違いはない。ただ、私はそうではない。神を信じていない。矛盾し、葛藤し、苦痛に弱い、ただの人間でしかない。それでいい、と思うに至った。それは、あの家庭に育ったものとしては結構な決意であったように思う。
だが、であるからこそ、今も、隠れキリシタンの歴史には心を惹かれる。それほどまでに、なぜ、神に身をささげられたのか。それほどまでになぜ、信じ続けたのか。そしてまた、なぜ、そこまでキリシタンを幕府は恐れたのか。一人一人の人間が何かを信じるということにどんな力があり、どんな意味があるのか。それは、今もなお、私の中の大きな疑問の一つである。親に尋ねても、そんなことは考えても疑ってもいけないことだと叱られるだけだったことが、今もなお残っている。
そんなことをつらつら思い出しながら、この本を読んだ。隠れキリシタンの史跡を訪ねるのであるから、どこもかしこも行きにくいところだらけである。なぜなら、見つかりにくい、人が来にくい場所で、彼らはひっそりと生き続けてきたのだから。そんな場所を、いつか訪ねてみたいと私は思う。静かな敬意をもって、彼らを振り返りたい。私はそうではないけれど、それでも私は、あなた方を尊いと思います、と言いに行きたい。
