117 エーリヒ・ケストナー作 池田香代子訳 岩波少年文庫
夏の岩波少年文庫フェア2024「ケストナーとドイツの作家たち」に応募するために買った本。「夜と霧」同様、池田香代子さんによる新訳である。
子ども時代に何度も読んだ本。久しぶりに読み返したら、いろんなことを思い出した。忘れていたけれど、この本に、私がどれだけ影響されたのか、この本にどんなに心を支えられていたのか、思い出した。新訳はとても素晴らしい。最後までずっとひきつけられて読んだ。
どうしておとなは、自分の子どものころをすっかり忘れてしまい、子どもたちにはときには悲しいことやみじめなことだってあるということを、ある日とつぜん、まったく理解できなくなってしまうのだろう。(この際、みんなに心からお願いする。どうか、子どものころのことを、けっして忘れないでほしい。約束してくれる?ほんとうに?)
この部分を読んで、私ははっきりと思い出した。そうだ、私はこの時、ケストナーに約束したのだ。子どものころの気持ちを絶対に忘れない、と。大人にとって取るに足らないことでも、子どもにとってつらいことはたくさんある。子どもは、ただ毎日能天気に楽しく過ごしているなんてことは絶対にない。子どもにも悲しみはある、そしてそれは決してくだらないものでも小さなものでもない。そのことを、絶対に覚えておこう、と私は決意した。大人は子どもをわからない。でも、わからなくなることがある、ということを、絶対に忘れない大人でいようと心に決めた。以来、それだけは忘れていない、と思う。そうか、私の約束した相手はケストナーだったのか。そのことは忘れていたよ。
ぼくがこれから言うことを、よくよく心にとめておいてほしい。かしこさをともなわない勇気は乱暴でしかないし、勇気をともなわないかしこさは屁のようなものなんだよ!世界の歴史には、賢くない人びとが勇気をもち、かしこい人びとが臆病だった時代がいくらでもあった。
この言葉は、今もずっと続いている。私たちは、かしこさと勇気をもたなければいけない。今、この時代に、かしこさをともなわない乱暴が横行しているこの世に、私たちはかしこさと勇気をもって立ち向かわなくてはいけない。なんと胸に響く言葉なんだろう。
ケストナーが13歳の時に入学した学校は規則ずくめで、命令にはうむを言わせずしたがわせるところだった、と訳者のあとがきに書いてあった。だからケストナーは正義さんのような教師をペンの先から生み出したのだ、と。しらなかった。子ども時代の私はこの本を読みながら、自分の周りには、正義さんや禁煙先生の様な大人はいない、と思った。クリスマスに両親に会えないことが、そんなにも悲しいことだとも実感できなかった。周囲の大人を信頼してなかったし、愛されているとも思えなかった。でも、だからこそ、今、読み返してそれが胸に迫る。子どもは大人に大事に愛されるべきだし、一人の人間として認められるべきなのだ。それが、つくづくとわかる。
私は、正義さんや禁煙先生や、あるいはジョニー・トロッツを養子にした船長さんのような大人になれただろうか?子ども時代の気持ちを、本当に忘れずにいつづけられているだろうか?そして、勇気とかしこさをもちあわせているだろうか?
心があらわれるような気がした。しっかりちゃんとした大人になろう、そして子どもも気持ちを忘れまい、ともう一度思った。
(引用は「飛ぶ教室」エーリヒ・ケストナー より)