「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか

「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか

2021年7月24日

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「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか
開沼博  青土社

この本は、毎日出版文化賞を受賞したそうだ。いわき市で生まれ育った筆者は2006年から福島原発の研究を進めてきた。3・11以前は、なぜ、そんなテーマを?といぶかしがられることが多かったという。3・11を境に、この研究には一躍光が当たることとなった。

この本は、原発に関する科学的な検証がされているわけではないし、また、反原発の立場をとって、原発の悪を暴きだそうとするものでもない。あくまでも、社会学的な立場から、原子力が戦後成長の基盤、地方の統制装置、そして幻想のメディアとして果たしてきた役割を論じたものだ。

正直に言ってしまえば、なんとも学生っぽい論文のように感じられた。いや、悪口ではなくてね。最初の数章は、どんな姿勢でこの研究に取り組んだか、どんな前提のもとに研究がなされたか、という前書きのようなものであるため、実は読み飛ばしても本論にはさほど影響がない。・・・と、筆者本人も書いていたっけ。書いてあっても、つい、ちゃんと読みたいというスケベ心でページが飛ばせなくて、あとで後悔した私ではある。これから読む人は、第三部「考察」か、せめて第二部「分析」から読んでも全然大丈夫よ、と私も書いておこう。それ以前の部分は、学生さんの真面目な姿勢こそ読み取れるけれど、玄人さんは省くことの多い場所だからね。

だとしても、原発がフクシマに建設されるまでの歴史的背景は、とても勉強になるものだった。地方政治について、何も知らないということに気が付かされた。地方と中央、あるいは都会と田舎の関係性についても、目が開かれる部分があった。しかし、全体的な印象としては、既にどこかで論じられていたような既視感もあった。たぶん、原発について調べ論じていく限りにおいて、地方が地方として自律するために原発を欲していたのだ、という発見は少なからず誰もがたどり着く結論ではあるのだろう。

純粋な論文としての評価は、私みたいな素人にはわからない。私がこの本から受け取った・・と言うより、この本を読むことで勝手に考えたのは、もしかしたら、この本とはあんまり関係のないことだった。すなわち、服従、被服従の関係がなぜ生まれるのか、と、地方と都会の関係性について。

私は読みながら、子ども時代に感じた素朴な疑問を思い出していたのだ。

なぜ、みんなは誰かの言うことを聞くのだろう?
なぜ、命令する人がいて、命令を聞く人がいるのだろう?

何人かの子どもが集まると、不思議なことに、何かを決めて、命令する人間がだんだんに決まってくる。もちろん、みなが納得するような、それを聞くといいことがありそうな内容が多いからこそ、従う子も多いのではあるが、その命令は、時にわがままになったり、理不尽なものになったりもする。しかし、一度命令する側としての立場が確立されると、おかしい、と思いながらも従う子は多い。あるいは、おかしいとも思わなくなっている場合もある。私は、それが不思議だった。

いうことを聞かなくても、別にぶたれたり、どこかが痛くなったりはしない。まあ、意地悪な言葉のひとつくらいはかけられるかもしれないけれど、それだって圧倒的な困難に至るほどのものでもない。言われたら、言い返せば済むことだ。一対一なら、その命令者と私と、どこも違わない単なる子どもだとしか私には思えない。だのに、なぜか、多くの子どもが命令に服従する。なぜ?なぜ?

その頃の疑問は、大人になった今も形を変えて続いている。国家には、警察やら司法やらといった装置があって、規律を乱すものを抑圧している。けれど、私たちは捕まっちゃったり、罰せられるのが怖い、ということを行動の規範にはしていない。私たちが服従するのは、もう少し別のものである・・・というようなことがひとつ。

もう一つは、地方と中央との関係性。
全国を転々とする私にとって、見えそうで見えない問題でもある。きっと私は中央の側からしか物事を見ていないのだろう、とこの本を読んでいて、つくづく思ってしまった。

いきなり話が飛ぶようだが、戦時中、軍隊で横行したというインテリいじめのエピソードをいろいろな書物で読んだことがある。理不尽な、無意味なきっかけで、いきなり鉄拳制裁が加えられ、有無をいわさずボコボコに殴られた軍隊時代の思い出。しかし、文章を書き、それを出版できるのは、インテリであり、都会で学ぶという経験を経たことがある者なのだろう。彼らにとって、軍隊は、理屈の通らない場所であり、やりたくもない戦闘に立たされ、心身を削り取られるようなひどい場所だった。

しかし、ある種の地方の農村出身者にとって、軍隊は夢の様な場所であった。身を切られるような辛い農作業に携わる必要もなく、飢える心配もない。鍛えた体には、軍の訓練は、都会者ほどに辛いものではない。理不尽がまかり通るというが、人生なんてそもそもが理不尽なものである。苦労して育てた作物が、自然の力で一瞬にして失われるような理不尽を彼らは幾度も体験しているのだから。そんな彼らにとって、文句ばかり言う、理屈ばかりこねる、それでいてひ弱で戦闘の役にも立たない都会のインテリは、許せない存在だったのかもしれない。一発殴ってやりゃあ、少しは気付きそうなもんだ、と考える道筋も、ないわけではない。

けれど、私が読んだ戦争文学では、理不尽な暴力を振るう古参兵は、みな、悪人であった。そう、私は思っていた。しかし、彼らの側から見ると、都会のインテリほど腹立たしい存在はないのかもしれない。軍隊でちょこっと殴られるのが、何ほどのものだというのだ。それまでの人生の苦労を比較して、どちらがどれだけひどい目にあってきたというのだろうか・・・。

この本では、植民地を外に求め、それに失敗した日本が、今度は国内で地方を植民地化していったという分析が(おそらく)なされている。中央の成長のために植民地化される地方という構図は、今も続いている(のだろう)。いつか仙台みたいになれる、と願った原発ムラは、永遠に仙台みたいにはならない、というジレンマ。
そういえば、小倉千加子も、都会と田舎という対立構造を指摘していたなあ。これは、いろんな問題に共通する課題なのか。

と、自分の持っている問題にどんどん引きつけて考えてしまって、今やこの本の内容はどっかへ行ってしまった、ダメ読者の私であった。

2011/11/8