あたしたち、海へ

あたしたち、海へ

12 井上荒野 新潮社

「小説家の一日」の井上荒野。あの本の感想で「100分deフェミニズム」の話を書いたけれど、この本でも、いま「100分de名著」で取り上げているジーン・シャープ「独裁体制から民主主義へ」のことを思わずにはいられなかった。「遠慮深いうたた寝」で本と本をつなげるひそやかな友情のことが登場したけれど、もはやその友情は本のことを語るテレビ番組にまで及んでいる。

「あたしたち、海へ」は中学生のいじめの話だ。一人の少女が、私立女子中学校で起きたいじめから逃れて少し離れた別の公立中学へ転校する。それでもなお、追いかけるようにいじめの波は押し寄せる。仲の良かった三人組が崩壊し、いじめのシステムに組み込まれていく。それを見て見ぬふりをする、言い訳ばかりの大人たち。

私は転校ばかりしている子だったから、いじめにもずいぶんあった。最初はちやほやされて、それから手のひらを返すように無視が始まり、あからさまに嫌がらせが起きたり、それでもそばに寄ってくる勇者(!)がいたりした。新しい教室に入ると、誰がボスなのか、誰がこのクラスを牛耳っているのかを私はすばやく見て取った。その子の言うことに驚くほど従順に従う子たちの群れ。どうして言いなりになるのだろう、どうして言われたままに転校生を無視したり、あざけったりするのだろう。私を憎んでいるのか?私が嫌いなのか?それとも、そうしないとそのクラスの仲間でいられないからなのか?みんなと同じでなければならないと思っているからなのか?そのボスにはどんな力があるのだろう。別に腕力が強いわけでもなさそうだし、お金をばらまいているわけでもない。ただ、自信たっぷりに彼女が命令すると、唯々諾々と従う子たちがいる。みんなで一斉に「嫌だ」と反抗すれば済んでしまいそうなものなのに。そんな疑問をいつも私は持っていた。

「100分de名著」のジーン・シャープ「独裁体制から民主主義へ」で、独裁者は民衆に支えられている、と最初に解説していた。民衆が従うからこそ、独裁者は独裁者たり得る。民衆全員が同時に独裁者を否定すれば、独裁は成り立たない。当たり前の話だ。そんなこと、私は小学生のころから知ってたよ、と思いながらそれを聞いた。クラスのボスの言うことをみんなが拒絶すればそれでいじめは終わるのに。そんな簡単なことがなぜできないんだろう、と私はずっと思っていた。権力とはそういうものだ。小学校や中学校で起きているいじめは、政治的独裁政治と同じ構造だ。子どもの世界で起きているそれすら、大人たちは手をこまねいている。

この本では、三人組の一人がいじめで転校し、残りの二人は否応なくいじめのシステムに組み込まれる。そこから逃れるために、最後に彼女たちはある選択をすることになる。大人は彼女たちを守らなければいけないのに。ああ、どうしよう…と最後まで読者は苦しい。

私は、クラスの女子全員と口をきいてもらえずに長い時間を過ごしたこともあるし、学用品を隠されたり、行事や移動で一人ぼっちで過ごさねばならないこともあった。けれど、私には本があって、開きさえすれば、良い友達がいて、楽しい世界があって、それから、そんなつまんない現実は、あと少し我慢すればまた別の場所に転校することで、とりあえずは雲散霧消すると知っていた。いじめる子たちもそれぞれになんだか苦しい思いや嫌な思いを抱えて生きているのが何となく見て取れたし、結局の処、そういう子供たちの姿をちゃんと見て、わかって、何とか守ってやろうと本気で思ってくれる大人がいないことが一番許せないことだと思っていた。子どもは、それぞれに闘っている。そのことだけは忘れないで大人になろうと思った。だから、今もそれだけは覚えている。

理不尽だと思うこと。おかしなこと。みんながやっているけれど、実は誰かを踏みにじっていること。それに気が付いたら、私は嫌だと言おう。そういう勇気だけは持ち続けよう、と子どもの私は心に刻んだ、はずだ。それが貫徹できているかどうかはわからないけれど、できるだけ勇気だけは持っていたい。そう今も思っている。そんなことを思い出さずにはいられない本だった。読み終えるのがちょっと苦しかったけれど、読後感は、悪くなかった。