おうい雲よ

おうい雲よ

2022年4月29日

おうい雲よ
ゆうゆうと
馬鹿にのんきそうじゃないか
どこまでゆくんだ
ずつといわき平の方までゆくんか

これは、大正時代に書かれた山村暮鳥の詩です。本来は旧仮名遣いで書かれた詩ですが、私の子供時代、一学年上の国語の教科書には、現代仮名遣いでこの詩が載っていたのです。私には、この詩にまつわる苦い思い出があります。

小学校低学年の頃でした。一つ上の姉が、国語の宿題でわからないところがあると父に相談しました。

宿題は、国語の教科書のわからない言葉を国語辞典で調べてノートに書きなさい、というものでした。姉はこの詩の「いわき平」がわからないので国語辞典を調べたけれど、載っていなかった、と言うのです。

父は「いわき平とは場所の名前だ。」と言いました。姉は、「でも、国語辞典で調べるのが宿題なの。」といいました。「お父さんがそれが場所の名前だと言った、ということはノートには書けないの。辞典で調べなければいけないの。」と。

すると、父は「だとしても、それは場所の名前のことなので、辞典には載っていない。載っていなくても、場所の名前だ。」といいました。姉はなおも「だから、辞典で調べてきなさいというのが宿題なの。辞典に載っていることしか書けないの。」と言い募りました。

それから、父と姉は「場所の名前だ」「辞典に載っていない」の応酬を繰り返し、最後に姉は泣き出し、父は怒って怒鳴り散らしました。父は割れんばかりの大声で、「なんでこんなこともわからないのか!」と怒り散らし、姉は泣き伏して「宿題ができないと明日学校に行けない!」と叫びました。

そのあと、どうなったかはよくは覚えていません。ただ、姉と父が大きく争い、怒鳴り声と泣き叫ぶ声が響き合い、親子の大喧嘩になって、そばにいた私はとても怖かった、という記憶だけが残りました。

何がどう問題なんだ?と思われるでしょう?姉は、「辞典で調べねば」から一歩も動けない。父は、姉の思い込みを解いてやることもせず、ただ、「それは地名だ」だけを言い募る。どちらも、自分が正しいと言い張りあって、最後は感情的になる。振り返ってみれば、実にくだらない喧嘩です。

よく考えてみれば、父は姉に地図帳を開いていわき平の場所を見せてやればよかったのかもしれません。あるいは、辞典には載っていなかったけれど、地図を調べたら福島県の地名であることがわかった、とノートに書いたらどうだろう、などと提案すればよかったのでしょう。けれど、そんな柔軟性を父は持ち合わせていませんでした。

姉は姉で、辞典で調べるという宿題を言葉通りにしか受け取れず、それができないと学校にいけないと思い込むような頑なさがありました。どちらも似たような性格だったのだと思います。だとしても、大人である父が、まさしく大人げなかった、と言えるでしょう。

私の記憶にはっきりと残っているのはこんな出来事です。が、これだけではなく、私の家では、時々、思いもよらないことで騒ぎが起きました。ほんのちょっとしたことがきっかけで父が怒り出し、家族の誰かが泣き出す。なぜ、それがそんな騒ぎに発展したのか、後から考えてもさっぱりわからない。ただ、聞き分けのない悪い奴だ、と父に感情的にどなられ、言い返そうものなら、さらに大変な事態が起きる。それが日常でした。

私は、できるだけ父には何も相談しないようにしていました。そして、大人の男の人とは、何を言っても急に怒りだすことがあるので気をつけねばならない、と考えました。父はもしかしたら、こんなのは些細な喧嘩に過ぎないじゃないか、と思っていたのかもしれません。でも、子供にとって、大人のどなる声はとても怖くて、暴力的な破壊力がありました。

私はこのように、いつ大嵐が起きるともしれない家庭の中で、どこかびくびくしながら育ったのだと思います。そして、家庭とはそういうものだ、と思っていました。

結婚して、私は新しい家庭を持ちました。そこでは、大人の男性である夫は理不尽に大声で怒鳴ることなどしないひとでした。何か問題があれば話し合い、互いの違いをすり合わせて、解決を図ることができました。こんなに穏やかな静かな家庭というものがあるのか、と私は思いました。

つくづく家庭はブラックボックスです。子どもは、一つの家庭でしか育ちません。それこそが当たり前であり、普通であると思って育ちます。理不尽なこと、間違っていること、問題のあることに、大人になったり、別の家庭を垣間見る機会ができるまで、気が付くこともできないのです。

穏やかな家庭を持てた私は幸せだと思います。ですが、世の中には、私の育った家庭のように、子供がびくびくしなければならず、大人の理不尽に振り回されながら育っている子供がきっといると思うのです。どうしたらそういう子たちの力になれるだろうか、と私はときどき考えます。子供は本当はもっとのびのび育っていいのだと、理不尽に子どもを押さえつける大人は間違っているのだと、怯える子供たちに伝えたくなるのです。

こんなことをブログを書いても、何の力にもならないかもしれません。だとしても。

「おうい雲よ」というのんびりとした雄大な詩から、こんな憂鬱な記憶を思い出してしまったことを、私は書かずにはいられませんでした。辛気臭い話でごめんなさい。

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サワキ

読書と旅とお笑いが好き。読んだ本の感想や紹介を中心に、日々の出来事なども、時々書いていきます。

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