だってだってのおばあさん

だってだってのおばあさん

2021年7月24日

「だってだってのおばあさん」佐野洋子

週末に、高校時代の友達と会ってきました。16のときから知っている彼女は、ちょっとオトナっぽくて、私より少し物知りで、斜めにものを見るけど、客観性があって、嫌なことを話していても、どこかでそれを笑いのめしてしまう子でした。すぐ深刻になってしまう私に、いつも新鮮な視点をくれました。大学が別々になってからも、時々は会っていましたし、結婚して、私が全国あちこち渡り歩くようになってからも、年に一回は会う様にしていました。だから、彼女が年月を重ねていく様子を、知らないわけではありません。

それでも、数ヶ月ぶりで会う彼女と向き合って、しみじみ、あるいは、わははと笑って話しながら、あら、あなた、おばさんになったわね、と言いたくなります。目がたれて、たるんできて、小じわも増えました。それなりに苦労も重ねて、疲れ果ててしまったことも、泣いて怒って地団駄踏んだ経験もありました。今じゃ、若い時にざっくり傷ついたようなことでも、まあ、何とかなるわ、と言い放つことができます。二の腕もぷよぷよしてきて・・・ああ、これ、全部、私にも当てはまるのね、と、おしゃべりしながら、心のそこで、密かにつぶやいてしまいます。

さて、「だってだってのおばあさん」です。たぶん、これは「あのひの音だよ おばあちゃん」のおばあちゃんとねこです。

おばあさんは98さいです。だから、ねこが毎日川へ遊びに行くのを家で待っています。ドアのところに椅子を出して、豆を剥きます。「だって、わたしは98さいだから。」
でも、おばあさんの誕生日、ケーキを焼いたおばあさんのところへ、おつかいに行ったねこが泣きながら帰ってきます。ローソクを99本買いに行ったのに、川へ落ちて、5本しか残らなかったんです。二人はケーキにろうそくを立て、何度も数えます。そう、おばあさんは五歳の誕生日を迎えたのです!五歳になったおばあさんは、川へねこと一緒に遊びに行きます・・・・。

わたしも、友人も、40をとっくに越えました。でも、もしかしたら、今の私たちのほうが、どこかでコドモかもしれません。自分を、オトナに見せたかったあの頃。早く成熟したいと願っていたあの頃。心の中のコドモの部分を押し隠し、捨ててしまいたいと思っていたのに、今の私たちは、笑って開け放ちます。かっこつけたり、自分をより以上の存在に見せかけようとは思いません。コドモみたいな部分を、素直に見せ合って、いくらでも笑えます。私たち、だんだん、こうやって、コドモに近づいていくのかもしれません。

だってだって。わたしも、今度の誕生日には、子どもにローソクを買いにやらせて、どこかにわなでも仕掛けて、ちょっと本数を減らそうかしら。

2007/8/13