なんだろうなんだろう

なんだろうなんだろう

2021年7月24日

131

「なんだろうなんだろう」ヨシタケシンスケ 光村図書

 

初見でパーッと流し読みした時。「理屈っぽいな、つまらん」と思ってしまった。絵本は、どうしても読み聞かせすることを中心に考えてしまうからね。ところが、二度目、じっくり読み返したら、うーむ、これは結構すごいぞ、深いぞ、と思い直した。別に子どもが一人で読んだって良いんだけど、大人である私が読んで、ふうむ、と立ち止まるところが、実は、ある。
 
ランドセル背負ったこうちゃんが、ちっちゃい子を連れたよそのおばさんにオハヨーって言われる。「どう?がっこう。」「まあまあかな。」「たのしい?」「うん、まあ、そうだね。みんなでパンダをかってるの。」「え~、ホントー?」「えへへ。うそ。」という会話。その脇でちっちゃい子が「がっこうってなに?」と尋ねている。
 
そこから、こうちゃんは「『がっこう』ってなんだろうね。あと『たのしい』ってなんだろう。『うそ』ってなんだろう・・・」と考え始める。以下、こうちゃんの「がっこう」「たのしい」「うそ」についての考察が広がる。
 
さて、そこから。学校につけば、クラスメイトとの会話が始まり、「ともだち」って「しあわせ」って?「自分って?」と考え始める。一方、こうちゃんと道ですれ違って散歩していた老人は、公園で孫の友達に出会い、会話を交わす中から、「正義」って「許す」って「自立」って・・・と会話が広がっていく。
 
ね。なんか理屈っぽいでしょ。理屈っぽいんだけどさ。進路に悩んでいる女子高生が、髪を切ってもらいながら美容師さんに言われるのよね。
 
「今からマラソンを走ってください」って言われても、そんなにたくさん走れないよね。
でも、マラソンの選手は、毎日走って練習しているから、長い距離を走ることができる。
それと同じで、「考えること」も脳みそを使った運動だから、ちょっとずつ練習しないとすぐには上手に考えられないはずなのよ。
 
       (引用は「なんだろうなんだろう」ヨシタケシンスケ より)
 
そうだよなあ、としみじみ思った。最近、感じるんだよね。みんな、「考える」ことをしなくなってる、って。何かわからないこと、知らないことにぶつかると、とりあえず検索ワードで「検索する」んだよね。そして、見つかった情報をざっと読み流して、わかったつもりになる。誰かがすでに出している回答をさっと受け取って、それで「正解」を見つけた気になっている。考えて考えて、あちこちぶつかって間違ったり迷ったりしながら、最終的に回答に行き着く、という作業を人任せにしている。だから、それが間違っていたとしても、その情報を出した人のせいで、自分のせいじゃない。責任も取らない、掘り下げもしない。そのくせ、いつも、不安だったり、自信が持てずには、いる。
 
考える、ってものすごく大切なことだと思う。色んな経験を積んで、それらを栄養にしながら、血肉にしていく作業が「考える」なんだと思う。でも、例えば学校の勉強では、丸暗記やそつのない答えを出す技術ばかり磨かれて「考える」コトを重視しない。生活の問題は人に聞いたり検索したりで片付ける。人間関係でつまずく人が多いけど、それも、空気を読んだり、忖度したり、周囲の人に合わせたり、で自分で考えない。もうね、「考える」という作業が、ものすごく減っていて、そして、みんな下手になっているんだと思う。
 
だから「なんだろうなんだろう」はじつはものすごく大事なことを指摘している絵本なんじゃないか。朝、学校に行く道筋で出会ったいつもどおりの出来事の中にも、「考える」ことは山ほどある。掘り下げて、最後まで自分一人で思考を広げ、何かを見つけられる要素は、ものすごくたくさんある。なんでも良いから、一つでいいから、やってごらん。考えてごらん。みつかるものがたくさんあるよ。・・・ということを、この絵本は言っているんじゃないか。
 
読んだ子どもが全て、そこにたどり着くとは言わないよ。でも、なんだろう、って考えるの、面白いな、と誰か思えたら、そこからきっといろんなことが広がるんだろうな、と思う。これで長いお休みの感想文だってかけるよね「僕の『なんだろうなんだろう』をやってみた」みたいなこと。結構、色んな意味ですごい絵本だぞ、これ。

2020/12/4