なんでオチを書くのかなあ(「塩狩峠」裏表紙への感想)

なんでオチを書くのかなあ(「塩狩峠」裏表紙への感想)

2021年7月24日

その昔、上の息子が高校性の時、夏休みの宿題に「塩狩峠」の感想文が出ました。読む前に「これって、どんな話?」と聞かれて、「とんとん、隣に住む『峠』というものですが、塩をお借りできないでしょうか、と頼まれる話。」と答えた私。息子は、夫にも同じように尋ねたら、ほぼ同じ答が返ってきて、おお、すばらしい夫婦愛よ、と感動したとかしないとか。んなわけはない、本当はいわゆる感動名作とされる作品です。

季節は巡り巡って、今度は下の娘に聞かれました。「塩狩峠ってどんな話?」Z会の添削問題に、塩狩峠の一節が載っていて、どんな物語なのか気になったそうです。まずは、お兄ちゃんにどう教えてやったか、を話してやってから。

「もし、あなたが電車を運転していて、レールが二股にわかれている直前で、ブレーキが効かないことに気づいたとする。電車は暴走している。右に行けば一人か二人が、左に行けば大人数が、大怪我をするか死んでしまうとして、あなたはどっちにレバーをひく?」

「そりゃ、一人か二人、人数の少ない方でしょう」とおちび。

「では、その二人が、家族とか恋人とか、ものすごく親しい人だったとしたら?あるいは、国家的に大事な大事な人だったとしたら?人数が少ない方へ行くほうが正しいと思うのはなぜ?」

「うーん、じゃあ、自分だけ飛び降りちゃう。」

「たくさん乗客が乗っているんだよ、二股にわかれたところに衝突したら、その乗客も、死んじゃうかもしれない。」

「えっと・・じゃあ、「皆さん、危ないから飛び降りてください、私も降りますから!」と叫んで、飛び降りる。」

「小さな子どもや、お年寄りが乗っていたら?飛び降りる力もない人たちだったとしたら?」

というやり取りがあって、「そうか、そこでその本の主人公はどうしたかが載っているんだね、それは読みたいなあ」とおちびが言いました。

ところで、この引越で、大量の本をなんとかすべて書棚に収めたいという野望をいだいた私たち。今までは段ボールに詰め込んで倉庫にしまっていた分もあります。本の話題が出ると、「その本、うちにあるよ。」「どこに?」「どこかだよ。」という一連の会話が必ずあって、うまく見つかればいいものの、何重にも詰め込んだ本棚や、段ボールの中を確かめることもできず、あるはずの本をまた図書館で借りてくるというお馬鹿なことを随分やりました。それを解消すべく、新たに書棚を買い、二重に詰め込み、を繰り返し、このたび、十棹の書棚にようやくすべてを収めました。正確に言うと、雑誌類のバックナンバーだけはダンボール入りなんですけどね。

その作業の最中に、たしかに私は「塩狩峠」を見かけた覚えがあるのです。ところが、どうしても見つからない。家中の書棚を探して回ったのに、なぜか見つかりません。というわけで、結局、あるはずの本を図書館から借りてくるというお馬鹿なことを、またやってしまいました。やれやれ。

で、おちび、熱心に読み始めたのですが。
文庫本の裏表紙に、あらすじが載っていたのです。中側じゃないのよ。表紙をひっくり返した表側です。

結納のため札幌に向かった鉄道職員永野信夫の乗った列車が、塩狩峠の頂上にさしかかった時、突然客車が離れ、暴走し始めた。声もなく恐怖に怯える乗客。信夫は飛びつくようにハンドブレーキに手をかけた・・・・・。

ここまではいいんです。問題は、ここから。この先を書いちゃうと、まだ「塩狩峠」を読んでいない人に申し訳ないから書かないけど、この先に、信夫が何をしたかが、全部書かれちゃってるんですよね。なんだよそれ。

何でオチを書くのかなあ、こんな目につくところに。物語のクライマックスじゃん、これって。それをネタばらししちゃって、新潮社、何を考えてるんだよ。これって、推理小説の裏表紙に「犯人は○◯だったのだ!」って書いてあるのとおんなじじゃん。

めげずにおちびは読んでいますが、モチベーションは下がるよなあ。これを見ちゃって、読む気をなくした読者も絶対にいるはず。いくら有名な話だからって、文庫本だからって、これはルール違反だと思います。新潮社の猛省を促したい。

(引用は「塩狩峠」三浦綾子 新潮文庫 より)

2013/4/29