ぼくの短歌ノート

ぼくの短歌ノート

2021年4月20日

15 穂村弘 講談社

穂村弘さんには、駅前ですれ違ったことがある、と何度かブログで書いた。薬屋さんの前を、なんだか思いつめた顔の人が通るなあと思ってすれ違って、あっと思った。作者写真で見たことがある、穂村弘さんだった。だから何。といえばそれだけだが。注意を引くオーラのようなものはある人だったのかもしれない。だって未だにその顔を覚えているもの。

この本は雑誌「群像」に連載された「現代短歌ノート」からの抜粋である。穂村さん自身の作品もあるが、多くは他の作家の短歌をあげて解説がなされている。アマチュアから、現代作家から、会津八一や斎藤茂吉などまで様々な作家が登場する。

最近、「プレバト!」のおかげで俳句の面白さに気づいたのだが、短歌もいいな、と改めて思う。俳句より文字数が多い分、のびのびしているし、季節を歌ったりする必要がない分、作者の内面に踏み込んだり、想像を差し挟む余地が広がる。全く別物だな、と感心する。当たり前か。

斎藤茂吉って結構すごいんだな、と今頃気がつく。

人間は予感なしに病むことあり癒れば楽しなほらねばこまる(斎藤茂吉)

なんて、医者のくせにそんな自由に言っちゃっていいのか、と思う。

荒川の水門に来て見ゆるもの聞こゆるものを吾は楽しむ(斎藤茂吉)

今、ここにあるものすべてを受け入れ肯定する自由もすごい、と思う。

大西民子という作家の、ごく普通のことをドラマチックに歌うやり方にも感心する。

わが使ふ光と水と火の量の測られて届く紙片三枚(大西民子)

これ、光熱費の請求書が来た、というだけの歌です。このドラマチックな展開、何よ、と笑ってしまう。

かと思うとこんな歌も楽しい。

祖父なんばん 祖母トンガラシ 父七味 母鷹の爪 兄辛いやつ(踝踵)

同じものを家族がなんと呼ぶか、だけの歌。だのに、なんだかいろんな光景が見えてくる、気がする(笑)。

夫はこれを読んで、短歌をひねり出した。ちょうど所属する趣味の会で短歌を募集していることもあって、楽しんでいる。義母は俳句のひとだったから、夫にもそういう遺伝子があるかも。短歌、もう少し読んでみたくなった。