セラピスト

セラピスト

2021年7月24日

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「セラピスト」最相葉月 新潮社

本当に苦しい時期というのが、誰にでもあるように、私にもあった。頭のなかをぐるぐるとかけまわる混乱した思いを、誰かに聞いてほしいと切実に願った。家族でも、友人でもない、何の関係もない第三者に聞いてほしい、整理してほしい。この葛藤をどうにかできないものかと頭を抱えていた。

だれでも利用できる相談窓口というものが世の中には幾つもあって、混乱し、疲れ果てた声で電話をすると、丁寧にこちらの話を聞いてくれた。問題を整理し、思い込みを排除し、前向きな提言もしてくれた。だけど、そんな作業は、もうとっくにやっている。と、不遜な相談者である私は思ったものだったし、時としてそれを口にした。わかっちゃいるけど、それがうまくいかないから、困っているのだ。分析もした、理由もわかっている。だけど一歩も前に進めないのだ。そう言い放つ私に、相手は最終的に、カウセリングを薦めた。どこか良い心療内科を受診し、カウセリングを受けなさい。そうすれば、きっと道はひらける、と。

そうなのか、と私は疑問だった。が、どうしようもない状況に疲れて、心療内科を受診もしてみた。気持ちが混乱し、前向きになれず、食べられず、眠れず、苦しい、と私は訴えた。それはなぜかというと・・・と話そうとしたら、医師はそれを遮った。「私は、症状を治す医師です。それなら、気持ちが楽になるお薬を出しましょう。試しに飲んでみて、変わらないようなら、また考えましょう」と。まだ言いたいことがたくさんあった私に、「どうしてこうなってしまったかについては、カウンセラーにお話し下さい。あなたにカウンセリングが有効かどうかはわかりませんが、試してみる必要性があるということを、医師である私が判断したので、受付で、カウンセリングの申込をして下さい。」カウンセリングの予約は、二週間後だった。ここへ来さえすれば、いま、なんとかなるなんて思った私が間違っていた、と初めて知った。

二週間の間に、状況は思いの外に好転し、私も少しは楽になった。安定剤のお陰で食べ物が喉を通るようになり、睡眠導入剤の力で寝ることもできた。そんな変化の中で、私は予約していたカウンセラーに会った。中年の、きっぱりした感じの女性だった。私は彼女に、ここに至る状況やそれに対する私自身の感情のあり方を説明した。と同時に、カウンセリングは本当に有効であるのか?と質問した。もっと楽な考え方もあるのに、自分で自分を追い込んでいるのを、わたし自身も知っている。なぜ、追い込んでしまうのかも、ある程度分析できる。ただ、そこから脱するすべがないだけだ。出口がないと思い込んでいる私に、カウセリングは出口をくれるのか。それとも、なぜ、出口がないのかを、もう一度認識しなおす作業をするだけなのか。何度も何度も一人でたどった道筋を、もう一度カウンセラーとたどり直すだけなのか、それともなにか新しいものは見えてくるのか、と。

今思うとそんなことを聞かれても困るよな、と思う。でも、その時私は本気だった。同じ所を何度も何度も行きつ戻りつ、ぐるぐる考えるのに疲れていた。効果があるかどうかわからないことに時間を裂き、お金をかける気になれなかった。

彼女は、深く頷いて、もしかしたら、カウンセラーがやるようなことを、あなたは自分一人でやっているのかもしれませんね、といった。一人でやるよりも、聞き手がいたほうがずっとわかりやすいし、客観的にもなれる。時間をかけていろいろ話すうちに、解決策も生まれるかもしれない。けれど、カウンセラーは、基本、治すということをするわけではないし、なにかよいアドバイスをする人でもない。ただ、ひたすら耳を傾け、聞くだけである。自分の中になんらかの聞き手がいて、そこへ向かって話すことができているのなら、私に話すこととそれほど違いはないのかもしれない。でも、それは、やってみないとわからない、と。

結局、私はその場で30分ほど話した後、とりあえず次回の予約はしないことにした。今以上に苦しくなった時に、いつでも予約が取れるためのカードだけもらって、お守りがわりに持っておくことにした。そして、その後、特に受診することもなく、なんとか現実と折り合いをつけて生活できるようになっていったのだ。

この本は、河合隼雄の箱庭療法と、中井久夫の絵画療法を中心に書かれている。河合は箱庭を、中井は絵をクライエントに作成させる。彼らはそこに寄り添い、見守り、時に言葉をかけるが、それは分析や誘導ではない。ただし、中井の絵画療法には、表現しやすいように、紙に枠を描いたり、描く対象物を指定したりするやり方での補助が入る。あとはただひたすら、クライエントの表現を鑑賞するのだ。長い年月をかけて、何度も作成させる中で、その変化を見守っていく。クライエントが心の中を少しでも安心して表現できる時間と場所を確保し、見守り続けるのだ。

実際に中井久夫の絵画療法を作者が受けた時の様子が、この本には逐語的に記録されている。これが実に面白い。ただ描くだけで、心の内側にあるものが溢れ、開放されるような感覚が追体験できる。もし、河合隼雄の笑顔に包み込まれながら箱庭を作ったら、きっともっと心が広がっただろう、などと想像もできる。ただ箱庭を作ったり絵を描いたりするだけで、精神が開放されるなんてこと、あるのかね?と疑っていた私だが、この章を読むと、なるほど確かに何かが変わってくるだろうと頷ける。これを積み重ねることで、きっと癒える病もあるだろう。実際に、そうやって回復していったクライエントの事例は山ほど存在している。

箱庭療法にも絵画療法にも、方法論のマニュアルや分析はない。そういうものがあれば、この療法がもっと発展するという声もあったそうだが、それは本来のあり方に反するものであるとして、体系立てて作られることはなかった。ただ、その療法を行うものたちが定期的に集まって研究会を行っていただけである。箱庭学会は、河合の死後、数年で解散した。

結局のところ、箱庭療法も絵画療法も、指導者を育成できるようなものではなく、そこに寄り添う人間の人となりや人間性に依拠するところが大きいのかもしれない。誰にでもできるものではないのだろうと私には思える。

その対極のように、精神医学界ではDSMという診断基準が採用されている。病気の原因や経過ではなく症状に着目して診断が行われる。例えば9つの症状のうち5つが当てはまれば、〇〇病と自動的に診断できるマニュアルのようなものだ。「精神科医は腹の底で何を考えているか」に、同じ患者に対して医師によってつける病名が違う事があると書かれていたが、このマニュアルを使えばそういうことはなくなる。だれでも診断が可能になるという点で、現場では歓迎されたようだが、一方では病気でもないものを病気にする傾向が指摘されている。実際、この診断が出来、かつ新薬が開発されて以来、うつ病患者の数は激増している。病人が増えたのか、病人とされる人が増えたのか・・・。

患者の症状を確認し、マニュアルで診断を下し、それに適応した薬を処方する。まさに、私のかかった医師もそれであった。そして、心のうちは、カウンセラーが担当する・・・と言っても、カウンセラーそのものが、臨床心理士、心理療法士、精神分析家、産業カウンセラー、認定心理士、認定カウンセラー、認定臨床心理カウンセラーなど様々な呼称による様々な存在があり、それぞれに得意分野も違う。そんな中で、箱庭療法や絵画療法などの時間と場所と特別な存在を必要とする療法を受けられる人がどれだけいるのだろうか。

いろいろなことを、考え込みながら読み終えた本であった。

2014/6/16