ヘルシンキ生活の練習

ヘルシンキ生活の練習

34 朴沙羅 筑摩書房

「言葉を失ったあとで」を教えてくれた大学の同級生のもうひとつのおすすめ本がこれ。なんというか、すごい本を読んだなあという読後感である。というと大袈裟か。もっと自然な、当たり前の、フラットな思いがきちんと記された本、というべきなんだろう。でも、ちょっとした出来事一つ一つを丁寧に見つめ、自分の経験や歴史と照らし合わせ、見たくないものを見る勇気も持ってちゃんと考えて書かれている。それが心に染み入ってくる。

作者は小さな子供を二人連れてヘルシンキに移住、就職した人。夫は日本にいて、時に行ったり来たりもしながら生活しているのだが、そこにコロナ禍も加わって、なかなか困難である。住む場所を見つけて、子どもたちを保育園に入れ、子どもたちと共にフィンランド語を習得しながら異文化の中に暮らす。そこから見えてくる、日本の、世界の現状、そして、幸福とは何か、という根源的な問い。幸福度世界一と言われるフィンランドが本当に幸福なのか、日本は不幸なのか。実感がこもりながらも客観性を失わない彼女の考察は静かだが、とても鋭い。

困ったときは、困ったと言わないと助けてもらえない。でも、困ったと言えば必ず助けてもらえる。フィンランドでの彼女の経験が、様々なことを私に考えさせる。日本では、声を上げなくとも察することが良いおもてなしとされるし、要求がましいことは恥ずかしいこととされる。長い旅行から帰って空港のトイレで様々な機能のボタン類や貼り紙などを見て、私は「やかましい」と感じたことを思い出す。もし、これに困っているのならこのボタンを、これが欲しいのなら、このスイッチを、そして、きれいに使ってくれたあなたには感謝をしているのですよ、とあらゆることが先だって想定され、ケアされているトイレの壁。

フィンランドで、作者は住む場所を探して奔走するが、なかなか住居が見つからない。それを同僚に相談して初めて社宅があることを知らされる。「社宅があるなら最初にそう言ってくださいよ」に対して担当者は「大変でしたね。でも、困っているなら困っているとおっしゃってください。そうでなければ、私たちはあなたを助けることもできません」と答える。自立とは他人に頼ること。困ったら明示的に助けを求めること。忖度する日本の文化と正反対だ。

作者は短い留学経験の中で料理のレシピを見るために「オレンジページ」を読んで、この雑誌に出てくる人たちは頑張りすぎじゃないか、と思ったという。雑誌通りに行動するなら、主婦は一人で家族四人の料理を作り、掃除、洗濯をし、それなりに流行に沿った服装とナチュラルメイクをする。丁寧な暮らしって大変すぎない?と思った。けれど、留学後、すぐに結婚してとりあえず妻になり、二年後には母にもなった。大してお金もなく安定した職もなく、人間的に未熟でもあったが、この配偶者とならたぶん子供を産んでも大丈夫だと思ったし、同僚の女性たちよりは恵まれていた、という。そしてこう書く。

でも、そんなに恵まれていないと出産できないのなら、おかしくないか。

生まれた子どもはかわいくて、目を離したら死んでしまうような気がして、この人を置いて職場に行ける気がしなかったが、半年もしたら、このかわいい生きものと一緒にいたら私がなくなってしまうような気もしてきた、という。自分の時間が欲しいと思い、だが、実際に我が子と離れて仕事をしていると、あのかわいい生きものを放り出して何をしているんだと思ったという。子どもを産んだら、今までと同じ時間と体力と集中力を仕事には注げない。でも、そのどちらもできなければ、母親として、あるいは研究者、教員として失格なのではないか、と彼女は考えてしまった。そして、考える。

母親なるものの担うべき役割に関して世の中で耳にする言葉たちは、母親をすることのハードルをどこまで上げるつもりなのだろう。そう思うのは、私のレベルが低いからなのか。

これらの葛藤は、子を育てたことのある者なら、みな経験したことではないか。たとえ、仕事についていようといまいと、自分がよき母ではいられないことに苦しんだ経験は、ほとんどの母親が経験していることだ。(余談だが、アカデミー賞の受賞スピーチで安藤サクラが言ったことはとても心にしみた。)

ヘルシンキで、作者は一人で子供二人を育てながら新しい仕事にもチャレンジし、夜、眠れなくなる。母として、仕事をするものとして追い詰められるのだ。ヘルシンキでは、そうした母親への相談窓口が設けられていて、そこに彼女は電話する。様々な提案や支援がなされる中で、彼女は母親というものについて考え、自分の持つ歴史的背景についても思いを巡らせる。

母であることの葛藤から出発して、自分のルーツ、歴史、生きるためのスキル、母とはどういうものか、などなど、思考は広がっていく。そして、様々なことに気づく。この流れが、この本のすばらしさであると私は思う。当たり前の生活に中に根付く、私たちの抱える問題。私たちは社会の一員であり、歴史の中の一人の登場人物であり、世の中を変える力もほんの少しは持つ、未来を担う人間の一人である。それが彼女の経験、苦悩と気づきと日々の愉しみの中で言語化され、手渡される。そうだ、それこそが「生活」なのだ、と改めて題名の意味に私は立ち戻る。

作者は在日朝鮮人でもある。そのために嫌な思いをしたこともある。そんな自分がどうのように子供を育てていくのか、思い悩むところもあって、ヘルシンキに渡ったのだという。そして、ヘルシンキという場所に立ったからこそ見える日本という国の姿。だからと言ってヘルシンキが素晴らしく幸福であるというわけではないし、日本には日本の良いところもある、不幸なところもある。それらを俯瞰して見つめる力が彼女にはある。

おおきな理想や希望というのとは違うのかもしれないけれど、この本を読むと、ダメなところもある私だけれど、まあ、頑張ってみようか、という勇気が湧いてくるのがわかる。別に何の問題解決もされたわけではないが、困ったときには助けを求めよう、私も困っている人は助けよう、友達を大事にして、社会に目を背けないで、人を信頼して、ちゃんと生きていこうと思えてくる。そういう力が、この本にはある。緩やかなユーモアに支えられていることも、素晴らしい。この本を教えてくれた友人に、心から感謝したい。

(引用は「ヘルシンキ生活の練習」より)