マジョガリガリ

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2021年5月15日

28 森達也 エフエム東京

「マジョガリガリ」とは「魔女狩り」狩り・・のことである。糸井重里が、森達也の仕事を評してそういった、そうである。

森達也は以前から何冊も読んでいるが、これは読み落としていたもの。図書館の書棚を久しぶりに眺めていて発見。2009年発行なのだから、なんと震災以前である。見落としていたのは、おそらくこれが対談本だからだろう。機転が利かず、滑舌が悪くて声が陰湿(本人談)な森達也がTOKYO FMで日曜朝のパーソナリティをやっていたと言うから笑ってしまう。本業のドキュメンタリー映画を作るために、彼はテレビにも出る、本も書く、ついにはラジオでも喋っていたのか。

対談相手は全部で48人。そのまま吉良邸に討ち入りできる、と彼はいう(笑)。この本にはそのうちに十人との対談が収められている。大貫妙子、辛酸なめ子、鈴木宗男、茂木健一郎、井筒和幸、中西準子、宮沢章夫、南こうせつ、香山リカ、曽我部恵一、Leyona、しまおまほ、是枝裕和、桐野夏生、蜷川実花、宇梶剛士、糸井重里、アーサー・ビナード、沢知恵、若松孝二。知っている人も、知らない人もいた。だが、どれも非常に面白かった。

印象に残った部分をいくつかあげる。南こうせつと以前話したときに、声高にメッセージをあげることへのためらいがある、と言っていた、と森が指摘すると、こうせつはしばらく間をおいてから「ぼくは敵も味方も好きなんですよ」と言ったという。そのことを振り返ったあとで、こうせつは、爆撃する側にもされる側にも家族がいてなんでこの2つが殺し合わねばならないのか、と切なくなる、という。

南「結局戦争が起きると本当に大勢の人が亡くなって、そこにはしばらく怨念がたまって、そして次の世代の子どもたちの代にまたそのことが爆発していくという、この輪廻の中に入っていく。だからとにかく手を出さないって言うのが、まず基本にあったほうがいいですね。」
「その意識を制度的に要約すれば、憲法九条になりますね。」

是枝裕和は、この対談のあと、いくつかの映画を撮り、カンヌ映画祭で賞も取った。彼の姿勢は、この頃から変わらない。森は、是枝との対談のあと、こんな事を書いている。

是枝に限らず、いわゆるドキュメンタリストやフォトグラファーにはリベラルな人が多い。これは日本だけでなく世界的な傾向だ。
理由は簡単だ。現場を知っているからだ。
だからこそ考える。眼の前で焼かれたり刺されたりキャタピラで踏み潰されたり爆撃されたりして五体をばらばらにされる子供や女や男や老人たちを見て、この戦争は防衛だから正しいとか大義はこちらにあるとかは考えない。まずは戦争を終わらせることを考える。
是枝もぼくも戦場でカメラを回したことはない。でも多くの現場を知っているからこそ、多少のイマジネーションはできる。演繹もできる。そして思う。表現はなんのためにあるのかと。僕らはなんのためにあるのかと。僕らはなんのためにこの仕事を選んだのか。そして与えられたのかと。
答えはもちろんひとつではない。でも重要な答えはある。人が人を殺したり殺されたりすることのない世界に少しでも近づくため、焼かれたり刺されたり踏み潰されたり爆撃されたりする人たちのため、飢えて泣きながら不正を訴える弱い人達のため、搾取されて俯いて吐息をつくだけの折れた人たちのため、僕たちは表現という機会と手法を与えられたのだ。

(引用は「マジョガリガリ」森達也より)

森達也も、是枝裕和も、この姿勢はずっと変わらない。だからこそ、私は彼らを信用する。表現することも、何かを学ぶことも、考えることも、誰かと仲良くすることも、あらゆる生きていることが、戦いのない、安心して暮らせる世界のためにあるのだと私も思う。防衛だとか、大義だとか正義のために人を踏みにじる人がいたら、それをとにかく止める、終わらせる。いちばん大事なのは、そこじゃないか、と私も思う。