ルコネサンス

ルコネサンス

112 有吉玉青 集英社

「美しき一日の終わり」以来の有吉玉青。あれを読んだのは2013年のことだったので、もう十年近くも前だ。内容もすっかり忘れてしまっていたが、ブログを読み返してみたら、63歳と70歳の恋愛であった。あのころは、老いらくの恋かよ、なんて他人事であったが、今やその年齢に近づきつつある私である。おお・・・。

「ルコネサンス」はフランス語。その辞書的な意味が、各章の題名に意味づけられている。見分けること、自ら認めること、踏査すること、見覚えていること、偵察すること、正式に認めること、感謝すること、告白すること・・・・。主人公はサルトルの研究者で、ルコネサンスとは、サルトルの言う「相互承認」からきている。と書くと、難しいわね。

この本は、主人公が、幼い頃に離婚で別れた父と、母や祖母が亡くなった後に再会した物語である。再会後の日々が、彼らのルコネサンスであった、ということなのだろう。実際、作者は若くして母、有吉佐和子を亡くし、ほどなくして、多忙の母に代わって彼女を育ててくれた祖母も亡くした。母は存命中、父については何も語らなかったし、祖母は決して父の話をしてはいけない、会ってもいけない、あれはとても悪い人だ、と彼女に教え込んでいた。そんな彼女が二十代後半に父と再会するに至った。

再会した父は知的で紳士的で素敵な男性であった。が、祖母の教えは彼女に沁みついていて、合う前は仏壇に手を合わせて言い訳もしたし、また、結婚、父親、といったものに対する幻想も強かった。それらとの葛藤や、その中での結婚、新しい生活、そして父の変容などが描かれている。

有吉玉青の作品は、ほかにも数冊読んだことがある。どれも美しく、静かで落ち着いた物語である。が、いつもちょっとした違和感があった。それが、この作品にもある。生活感がない、と言ったら語弊があるのかもしれないが、主人公の感情も、日々の生活も、どこか他人事なのである。誰かがしつらえた環境の中で、守られて生きるのが人生であるかのような感覚、といえばいいのだろうか。たとえば、母や祖母の遺した都心の大きな家を出て、結婚相手とマンションに住むときに「ときどきはこの家にも帰ってこよう」と考える。大学院で研究を進みながら、就職は難しそうだから、とりあえず留学をしておこうか、などと考える。そこには、一切の経済が抜け落ちている。つまり、彼女は、どのようにたつきを得て、どのような経済基盤を持っているのか。学費はどのように捻出し、留学費用はどのように出すのか、就職しなくても生きていけるのか、都心の家を維持するための費用は誰がどう出すのか、光熱水道はどうなっているのか、などなど…。そんなことは物語の本質とは関係ない、のかもしれないが、生活とはそういうことと日々向き合うことであり、そうした問題を考えずに人は生きてはいけない。だが、それらは、彼女の物語には、一切登場しない。それが、とても不思議なのである。

再会した父の再婚相手の女性との関係性もまた、そうである。そんな人がいると知ったとき、許せないと強く思ったり、結婚式の時にその人から寄せられた気遣いに助けられた気持ちになったり、かと思うと、のちに父と彼女の関係性が変わると、打って変わって激しく拒絶するなど、一貫性がなく、ひどく感情的であるのに、それに対する内省は一切ない。「私を邪魔立てするもの」認定が行われると、許容から外すことに容赦がない感覚。それもまた、他者との関係性における浮遊感というか、実体感のなさであると思えるのだ。

優しい夫との生活、学問の世界の研究の日々、そして、ついに出会った素敵な父との邂逅。でも、その中にも葛藤はあり、思い通りにならないことも多々あり、悩み苦しみはするのだけれど、それは彼女の周囲だけ、柔らかな膜に囲まれた世界のなかでの出来事でしかないような、そんな感覚。

それが、なんとなく物足りない気分にさせる原因なのかもしれない。とても面白く、最後まで飽きることなく読んだのに、じゃあ、何を得たのかと問われると、うーん、なんだかなあ、と思ってしまう、私にとってはそんな作品であった。

それから、ふと思ったのだが、再会した父に、彼女は恋に近い感情を抱いたという。それが、「美しき一日の終わり」を生み出すきっかけになっていたのかもしれない。