中井久夫スペシャル 100分de名著 NHKテキスト

中井久夫スペシャル 100分de名著 NHKテキスト

8斎藤環 NHK出版

「小説家の一日」で少々常軌を逸脱して「100分deフェミニズム」について語ってしまったが、この本は、同じく「100分de名著」シリーズのテキストである。講師は「心を病んだらいけないの?」の斎藤環。うっかり第一回目の放送は見逃してしまったのだが、二回目からでも十分面白かった。

中井久夫は日本を代表する精神科医であり、翻訳家、文筆家としても多くの業績を残している。昨年八月に惜しくもお亡くなりになった。「100分de名著」では、中井の「最終講義」「分裂病と人類」「治療文化論」「『昭和』を送る」「戦争と平和 ある観察」を取り上げている。

中井久夫は、特異な不治の病のように扱われてきた統合失調症が、十分に回復可能な病であることをはっきりと示した精神科医である。それまで発病の経緯にしか注目されていなかったこの病を、患者の体に起きる事象をつぶさに観察し、時系列でグラフ化した。その回復にはいくつかの段階があること、とりわけ急性期から回復期に移行する時期を発見して「臨界期(回復臨界期)」と名付け、画期的な研究として精神医学会から驚きをもって迎えられた。統合失調症は治る可能性があることを示し、諦めと惰性が支配的だった慢性期の治療に希望を生んだ。

彼は患者に寄り添い、患者の尊厳を徹底して尊重することがそのまま治療やケアにつながることを一貫して主張してきた。

私たちは「とにかく治す」ことに努めてきました。いまハードルを一段上げて「やわらかに治す」ことを目標にする秋(とき)であろうと私は思います。かつて私は「心の生ぶ毛」ということばを使いましたが、そのようなものを大切にするような治療です。

分裂病の人のどこかに「ふるえるような、いたいたしいほどのやわらかさ」を全く感じない人は治療に携わるべきでしょうか。どうでしょうか。

中井は、人の心の柔らかい部分を大切にする力を治療者の資質の一つとして捉えていた。これは精神科医だけでなく、あらゆる人の痛みに向き合う人間すべてに求められる資質でもあると思う。

「分裂病と人類」で、人はだれしも分裂病になりうる資質を持っているし、また、そういった資質のあるものがある意味歴史の中で重要な役割を果たしてきたことを指摘している。「治療文化論」では「個人症候群」という概念を提唱している。うつ病や統合失調症と言った全世界に通用する普遍的な病だけでなく、特定の地域や文化に深く関係する疾患「文化依存症候群」がある。そこから派生して、ある個人にしか該当しない疾患としての「個人症候群」を考えたのである。

例えば、摂食障害は、痩せていることが美しいとされる文化のもとでしか発症しない。対人恐怖は近年の日本で発症する文化依存症候群である。他者が自分に対して悪い印象を持つに違いない、と思い込むことによって生じる恐怖感が対人恐怖である。私の老母は時にこれに取りつかれ、私はその対応に右往左往させられる。そしてなぜこれが発症したかは、彼女の歴史から紐解ける。個人症候群は患者の熟知者によって治療が可能である、と中井は言っている。なるほど、母の対人恐怖は、私の言葉によって軽快し、彼女は心の平安を取り戻すことができるようだ。だが、また繰り返されるのだろう・・。

「昭和を送る」では、中井は昭和天皇を病跡学的視点から分析している。そこにあるのは昭和天皇という個人に注がれる中井の視点の優しさである。賞賛するわけでなく、時に戦争責任にも言及しているにもかかわらず保守的雑誌にも掲載されたのはイデオロギーや政治的姿勢にとらわれない優しさゆえのことだった、と斎藤環は指摘している。

「戦争と平和」では平和というもののわかりにくさ、見えにくさが指摘されている。

戦争が「過程」であるのに対して平和は無際限に続く有為転変の「状態」である。だから、非常にわかりにくく、目にみえにくく、心に訴える力が弱い。

戦争反対の言論は、達成感に乏しく次第にアピール力を失いがちである。平和は維持であるから、唱え続けなければならない。しかも効果は目にみえないから、結果によって勇気づけられることはめったになく、あっても弱い。

人間が端的に求めるものは「平和」よりも「安全保障感security feeling」である。人間は老病死を恐れ、孤立を恐れ、治安を求め、社会保障を求め、社会の内外よりの干渉と攻撃を恐れる。人間はしばしば脅威に過敏である。しかし、安全への脅威はその気になって探せば必ず見つかる。完全なセキュリティというものはそもそも存在しないからである。
「安全保障感」希求は平和維持のほうを選ぶと思われるであろうか。そうとは限らない。まさに「安全の脅威」こそ戦争準備を強力に訴えるスローガンである。

この指摘は今の私たちを取りまく状況そのものであると感じる。安全保障を求めすぎる気持ちが不安をあおり、様々な状況をあってはならない重大事と捉え、主戦論に走り、戦争準備につなげてしまうからである。「やられる前にやれ」「攻撃は最大の防御」などという発想が暴走する元となってしまう。

中井久夫は偉大な精神科医であり、文筆家であった。この人の遺した言葉を、私たちはもう一度真摯に読みなおす必要があるように思えてならない。

(引用はすべて「中井久夫スペシャル 100分de名著」斎藤環 より)