僕は、そして僕たちはどう生きるか

僕は、そして僕たちはどう生きるか

2021年7月24日

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「僕は、そして僕たちはどう生きるか」 梨木香歩

ある本へのオマージュのような時代がかった題名。しかも、主人公はコペルくんだからね。もちろん、それに意味はあるのだろう。

14歳のコペルくんは、一人暮らし。知的労働に携わる理性的な両親の実験的な試みとして、一人暮らしを許されている。ブラキ氏という犬と一緒に。

コペルくんの叔父のノボちゃんと、不登校実践中のユージンの庭・・というか家にお邪魔して、そのいとこのショウコもやってきて、みんなで野草を摘んだり料理をしたりする。そこへ、謎の隠者も絡んでくる・・・。

コペルくんはとても理屈の勝った子で、難しい言葉を多用する。幼児期から、「端倪すべからざる」とか言っていたって設定だ。「○○だったらいいなあ」という代わりに「希望的観測にすぎないということはわかってるんだけど」とか枕詞をつけちゃうとかね。
不登校実践中のユージンも、それにやや近いキャラクターの持ち主で、だから二人は友だちなんだけれど、コペルくんは、ユージンが不登校になった理由がわかっていない。そして、ちょっと疎遠だ。けれど、この日、それが明らかになっていく。

コペルくんのキャラクターが最初は結構好きで楽しんでいたのだけれど、途中ある場面から、一気に「こんな奴、いるかよ」と思った自分に気がついた。本当にいるかどうかじゃなくて、リアリティがなくなった、ってことかな、と思った。

何をこんなに、と私は思った。
梨木香歩さんは、こんな直球を投げる人だったっけ。
登場人物に、こんなにまともに、言いたいことを言わせてしまう人だったんだっけ。

コペルくんの言うことは、私にはよくわかった。伝えたい事も、とても良く理解できた。ほんとうに、色々な問題を、切羽詰まって、いま、ここで言いたい、と思っているのがわかってしまった。
言いたいのは、コペルくんじゃなくて、梨木さんだ。
でも、そんなことは、もうどうでもいいのかもしれない。

例えば、戦争中に徴兵を忌避して隠れていた人の隠れ場の話が出てくる。その人が、戦後何十年もたってから帰ってきて、あなたは隠れているときに何を考えていたのですか、と尋ねられて、答えたのが、この題名になっている。彼は、こう答えたのだ。
「僕は、そして僕たちはどう生きるかについて。」

話は、またずれていくかもしれないけれど、私は学生時代に、金子光晴の一人息子の話を聞いたことがある。金子光晴に関する講演会が大学で行われて、野坂昭如とか、あと誰だったかなあ、文学者が何人かが話をした。金子光晴の息子さんは、私の大学の先生をしていて、彼も父親の話を、そこでした。

金子光晴とその妻は、一人息子を戦争にやらないために、煙でいぶしたのだ。徴兵検査ではねられるように、息子の体を痛めつけたのだ。私はそのエピソードを読んだ時、感動してすごいと思った。そして、生きてる息子さんを見た時、おお、これがあの、煙でいぶされた息子さんか、と思ったものだった。穏やかな初老の紳士だった。

それから何年もたって、あれは本当にすごいことだったのか、感動するようなことだったのか、と私は考えたのだ。なんの疑いもなく、徴兵検査を受け、合格し、戦争に行ったたくさんの人たちがいた。彼らは、たぶん、戦争に疑問を持ちもしなかっただろう。日本は正しいと信じていただろう。そして、無惨に死んでいった。

この戦争は間違っている。そして、きっと負ける。そうわかっていた知識人があの時代にいて、自分の子を守ろうとした。それはかっこいいことなのか?感動的なことなのか?それが、今の私にはわからない。難しい言葉を知っていて、真実は何かを考え続けるインテリは、自分の子どもを守れば、それでよかったのだろうか?

「フクシマ論」を読んで、私は、貧しい農村出身者にとっての軍隊というものについて、全く違う見方があるということに気がついた。身を切られるような辛い農作業、理不尽な自然災害、常に襲ってくる飢え。そういうものがない軍隊の生活は、もしかしたら、それまでの彼らの日常よりも有難いものだったのかもしれない。そして、そんな場所で、ひ弱で役に立たず、頑張って戦おうともせず、理屈ばかりこねて偉そうな顔をしているインテリは、実に腹立たしい存在だったのだろう、と。考える暇があったら、敵のひとりでも殺せ。そう苛立って殴る上官は悪いやつで、哲学的に思考を深めるインテリ兵士は「正しい」存在だったのだろうか。

だから、それがなにか?とも同時に思う。社会が、みんなが同じ方向を向いてながされていこうとするときに、一人、自分が正しいと思う方向を向いて踏みとどまることは、大事だ。とても、大事だ。

梨木香歩は、この本のとびらにこんな言葉を書いている。

  群れが大きく激しく動く
その一瞬前にも
自分を保っているために

(「僕は、そして僕たちはどう生きるか」梨木香歩 より引用)

大人の社会が、同じ方向を向いて流れていこうとしていたり、「普通」の名を借りて、人を傷つけて知らん顔をしていたり、皆の感動を呼ぶようなことを真似事してみたりしている。その欺瞞を、梨木さんはコペルくんに気が付かせている。それはもう、がむしゃらに、なりふり構わずに。

中学生だから、視野の足りないところもあるよね。そういうことなのだろうか。何に私は戸惑っているのだろうか。私が、いきなり金子光晴のエピソードを思い出したのは、なぜなのだろうか。

まだ、私には整理がついていない。
踏みとどまることの大事さは私にもわかる。けれど、何か見落としているものがあるような気がする。この本に、何か足りないものがあるような気もする。

この本は震災より前に書かれたものなのに、もう、目前に破滅を予感してるような切迫感がある。梨木さんを駆り立てていたものは、いったい何なのだろう。

2012/1/11