名著の話 僕とカフカのひきこもり

名著の話 僕とカフカのひきこもり

2022年3月25日

41 伊集院光 KADOKAWA

NHKのEテレで「100分de名著」という番組をやっている。世界の名著とされる作品についてアナウンサーがざっと解説をしたり、役者が朗読をしたり、そして、専門家が丁寧に分析する。伊集院光はそこに「無知代表」として座っている。その名著を読んだことがないか、あるいはちょっと触ったことがあるだけで全然理解していない立場。専門家の話がよくわからなければ、「そこ、ちょっとわからないんですけど」と言ったり「そもそもどういう意味なんですか?」と、ものすごく基本的なことに立ち返って尋ねたりする役どころである。なので、番組収録が終わるまでその名著を読んではいけない。ただ、話を聞いて、どんどん読んでみたくなったりする。そして、収録後、晴れてその本を読んで「そうだったのか!」と感動したり「でも、ここ、ちょっとまだわからない」と思ったりする。ところが、もう収録は終わっている。そんな風に、読んでみたらもっと聞きたいことが出てきた、という名著三冊を選んで、改めて専門家の先生と対談したのがこの本である。選ばれたのはカフカ「変身」、柳田国男「遠野物語」、神谷美恵子「生きがいについて」の三冊である。

伊集院光は中学時代からひきこもりになり、高校も中退している。彼にとって「変身」は、かつて訳のわからない小説だったという。不条理だからねえ、わからなくてもそれでいいんだ、なんて煙に巻かれていたとか。でも、ある朝、急に虫になっていた、という話は、虫けらのように何の役にも立たない人間になってしまって、ベッドから起き上がるのも嫌になってしまった人間のことである、と受け止めたら、ものすごくわかってしまったという。これ、俺のことじゃん?と思ったんだそうだ。

カフカは、ひきこもりにはならなかったけれど、社会生活を立派に営んで、良い人間でいることからドロップアウトしたい逃げ出したい、という気持ちはずっと持っていた人らしい。人と関わりたくない、でも、関心は持っていてほしい、という感じ。それはものすごくよくわかる、とひきこもり経験者の伊集院は言う。解説の川島隆も、人とコミュニケーションがうまく取れなくて、「変身」はまさしく俺の話だ、と思ってきたという。二人の意気投合っぷりと、そこから始まるカフカのひきこもり話は非常に興味深い。

「遠野物語」を伊集院は「おもしろかなしい、くさしょっぱい話」という。例えばテレビだと、面白い話を短時間に面白いエッセンスだけを凝縮してパッと提示する話し方が必要だけれど、ラジオだと、面白い話のつもりでも、どこか悲しかったり、胡散臭かったり、ちょっとしょっぱい気持ちになったり、と時間をかけて広げられる。そんな風に、人から聞いた話、寄せ集めた話をいろんなテイストも含めて広げて、特に結論もつけない、野生、野蛮、未開の手触りのある営みをそのまま提示するようなところがあるのが遠野物語である、と。

「生きがいについて」は人生の締め切りを感じた時に出会う本である、と言っている。そういう言い方は、結構しみるなあ。私もこの歳になって、後ろが見えてきたからこそ思うことが多々ある。自分にとって最も大事なことは何なのか、は締め切りを目前にして初めてわかってくるものなのかもしれない。

伊集院光は、六年間続けた朝のラジオ番組をやめた。私はその番組が大好きだった。ずっと続く番組だと思っていたので、喪失感が大きい。様々なコーナーが、リスナーのいろいろな部分に響いて、バランスの良い、心温まる、楽しく美しい番組だったと思う。高校生のころからのラジオ好きだった私にとって、いわばラジオの一つの理想を体現したような番組だった、と言ったら言い過ぎだろうか。

この本でも、伊集院の語る言葉はそのすべてがラジオに呼応しているように思える。彼は、自分が語ること、ラジオ番組を構成していくことと人生を重ね合わせているのだと思う。カフカも、遠野物語も、生きがいも、彼にとっては、それがラジオへとつながっていくものではないだろうか。

番組が終わることについて、それは伊集院自身が決めたことなのだから、もう何も言うことはないのだが、いつかまた、どこかで昼のラジオをやってほしい。それを私は絶対に聞く。ラジオパーソナリティとしての伊集院光を、私は信じている。