墨攻(山本版)

墨攻(山本版)

2021年7月24日

「墨攻」 山本甲士

酒見賢一の「墨攻」なら、読んだ。
酒見の「墨攻」を原作として、劇画が描かれているらしい。
それを、原作として、映画が作られたそうだ。
この本は、それらから着想を得て書かれたフィクションだそうだ。
あー、ややこしい。

上記の事情を説明された上で、「結構面白い」と夫から渡されたけど、食指は動かないよね。パクリのパクリのパクリ、みたいなもんでしょう?で、ずっと積み上げてあったんだけど、図書館が閉館だと、だんだん、酸欠の金魚みたいになってきて、ついに手を出しました。「バカにしてたくせに、読んだら、はまってるじゃないか」と夫に指摘されて、くやしい!けど当たってる。
面白かった。

読み終えると、酒見版ではどうだったっけ、と読み返したくなる。家のどっかにはあるはずなんだけど・・と探してると、「浅い方にはなかった。きっと深いところだ」と夫。同じこと考えてるのね。二重、三重にぎゅうづめで、どこに何があるかわからない我が家の本棚。ああ、一列に本が並べられる本棚がほしい。そんな本棚が置ける家がほしい。そんな家が手に入るお金がほしい・・・・みつかりません!いえ、お金じゃなくて、酒見さんの本が。

山本版と酒見版ではエンディングが決定的に違う。違うんだけど、どんな終わり方だったか、記憶が曖昧。あー、知りたいっ!

墨子を始祖とする墨家は、非攻を訴え、侵略行為の愚かしさを知らしめるため、要請のあった国に、無報酬で徹底抗戦の指揮を取る墨者を差し向ける。これは、趙に攻められようとしている燕国の梁城に入った墨者、革離の物語である。二千三百年以上昔の戦国時代の中国が舞台だ。

絶対に攻めないで、ひたすら守る、という姿勢は、風前の灯の憲法九条を思い出させたりもする。例え守るだけだって、人はばたばた死んで行く。
この物語のすごいところのひとつは、すぐに出てきて死んじゃうだけのチョイ役でも、ちゃんと名前があり、背景があり、ドラマがあり、つまりはひとりの人間としての存在が死んでいく、その重みをかなりきっちり書き込んであること。そして、殺してしまった人間の受けるダメージ、恐ろしさも明確に意識している。死んでいくのは「群集」ではなく、一人ひとりの顔が見える、そんな書き方がされている。

極小弱軍が、押し寄せる大軍をどう迎え撃って、やっつけるか、という辺りはカタルシスもあるし、それでも、絶対に「守る」だけだよ、という基本も押さえられている。いろいろ考えちゃう本ですね。酒見版とは(たぶん)違うエンディングも、返って新しい展開を見せて、おもしろい。

ところで、これのカテゴリは一応「歴史」なんだけど、実はこの物語はフィクションです。「墨子」は実在したんだけどね・・・。さて、この後、酒見さんの本は見つかったのでしょうか。続きは明日の、お楽しみ。

「墨攻(劇画版)」に続く→

2007/3/1