女ことばと日本語

女ことばと日本語

75 中村桃子 岩波書店

この本は、このブログのコメント欄で教えていただいたように思うのだけれど、今、探してもなぜか見つからない。教えてくださった方、ありがとうございました。非常に興味深く、新たな知識を得ることのできる良い本でした。

日本語には女ことばがある。「あるのよね。」「あるわ。」「あるって知ってますよのよ。」などが、いわゆる女ことばである。日本語には女性らしい言葉遣いがあるからこそ優れた言語なのである、とか、この頃女性の言葉が乱暴になってきたが、やはり女性らしい言葉遣いは大切である、などいろいろ言われている。全国のあらゆる新聞を調査すると、ほぼ毎日、言葉遣いの乱れについて嘆く投書が掲載されているという。そんな女ことばについて探ったのがこの本である。

いわゆる女ことばは、実は標準語にしか存在しない、という指摘から本書は始まる。目からうろこである。そういえば、私の父方の祖母は茨城の人だが、自分のことを「オレは」と言っていた。「だわ」「なのよ」なんて言葉を使っているのを聞いた記憶はない。

女ことばは、宮中で働く女性たちの女房詞が起源の一つである。婉曲な表現にしたり、共通の仲間内の言葉を作ろうとしたのではないかと推測されている。「そもじ(あなた・・・一部を省略し「もじ」を接尾する)」や「おみあし(足・・・「お」や「おみ」を接頭する)」、「おひや(水・・・感覚、味覚に基づく)など。もともと高い階級の女性が使う言葉であったが、それが徐々に一般庶民にも浸透していったと考えられる。

また、明治維新以降の女学生の一部が「てよだわ言葉」を使い始める。「あんまりだわ」「そうじゃないのよ」「よくってよ」などである。これらの言葉は、当時、女性が学問をすることへの抵抗感と相まって、男性知識人からは、軽薄である、正当な日本語ではない、などとむしろ批判の対象となっていた。資料がいくつも残っている。

ところが、そうした一部の女性が使ってきた言葉がいつの間にか、日本語には女性らしい言葉遣いが伝統的に存在しており、それが日本語のすばらしさの一つである、という言説に閉じ込められていったのである。

その背景には、女性につつしみや品などの「女らしさ」を求める言説や、近代国家建設における国語理念を男性国民の言葉として純化させようとする姿勢があった。さらには、アジア植民地に日本語を教え込むことで皇国国民に同化させようとすること、家父長的な家族国家観において性別のある国語が強調されたこと、そして、戦後日本で男女同権を鈍化させようとする動きと深いかかわり合いがあったことなどが本書で指摘されている。

女性はやはりおしとやかに婉曲な表現をして、固い漢語などを使わないほうが望ましい、女性らしい言葉遣いをすべきである、という主張は今でもよくみかけるものである。それらが何を意味しているか、もう一度よく考える必要がある、とつくづく思う。言葉は常に自然発生的なものであるわけではなく、ある種の言説や意図や教育によって方向づけられていくものだ。だからこそ、大事に言葉を選んで使っていかねばならないし、言葉遣いに対する言説には注意深くある必要があるのだ。