宙ごはん

宙ごはん

28 町田そのこ 小学館

「52ヘルツのクジラたち」の町田そのこである。と、気が付いたのは読み終えた後。そして、その感想を読み返してみて、ああ、また同じ感じだな、と思った。

「宙ごはん」は、家庭内に不穏なものがあって、実の親とは別の人に育てられたけれど、愛情はちゃんと与えられているという状況があって、でも、その中でも親子関係には時として問題は起きるし、そんなときには血のつながりはないけれど愛情深い別の大人においしいご飯を与えられ、子供は救われる、そして子供は様々なことを乗り越えて成長する、という物語。…とあらすじを書くと、おお、これはもう「そしてバトンは渡された」ではないか、と思えてくる。

別にまねした、と言っているのではないよ。今まで見過ごされてきた、家庭の中での子供の孤独や親との葛藤、放置や虐待、DVなどの存在が様々な場面においてクローズアップされるようになったということだ。書き手が自分の内面と向き合うとき、いちばん最初に出てくる問題がそれだったのかもしれないし、人の幸せが、とどのつまりは家庭や家族の温かさ、そしておいしいご飯によって支えられるということが見直される時代になったのだとも思う。

こういうテーマを深く掘り下げて書けるということも、そういう小説が広く受けいられらるということも、子供や女性が生きやすい世の中になりつつある証拠なのかもしれない。問題が存在する、でもそこから脱することもできるよ、というメッセージは良いものだ、と思うしね。

ただ、この作者の作品は、前も思ったのだけれど、子供が出来すぎているように思う。頭でっかちというのかな。自分の抱えている問題を見事に言語化して理解しちゃう辺りが、全然子供っぽくないと感じてしまう。

小五の主人公が、不倫をしていた母親に向かってこんなことを言う。

「カノさんが不倫してたこと、知らなかった。何にも・・・ほんとうに何にも、知らなかった。わたしは大事なことを何ひとつ知らされていなかった!なのに振り回されて邪魔者扱いされて、あげくに放置。最悪だよ!」

あるいはやっぱり小五の主人公の友達がこんなことを言う。

「あたしが絵なんて嫌いだって言ったときから、あたしに興味がないの。あのひとは、母親になれないひとなんだよね」

小五と言えば、十歳、十一歳である。どんな賢い子であろうと、どんな酷い経緯をたどって経験深くあろうと、そのくらいの年頃の子が、そこまで親を見通せるものだろうか。そして、それを言語化できるものだろうか。子にとって親は絶対であり、家庭はブラックホールであり、その中で育った子は親を相対化するのがとても難しい。たとえ自分が邪険に扱われても、それは自分が悪い子だからであり、親は悪くないと子は思い込み、自分を責めるものではないか。

逆に言えば、親がしていることは放置であり、自分は邪魔者扱いされていただけであること、母は母親になり切れない大人であるということを理解し、言語化できたら、その問題は実はもう半分は消化されているようなものではないか。一番大変なのは、そこへの気づきであり、内面でそれが言語化されることである、とすら私は思う。

というのも、なにしろ私自身が親との関係性においては、この歳になってなお、新たな気付きを得てやっと心の整理がつきつつあるからだ。89歳で父親が亡くなってからの数年間、ようよう父との関係性を新たに見直せているような私にとって、十歳、十一歳の子供が、親にされていたことを理解し、それに異議申し立てできるなど、想像を絶する状況でしかない。「あのひとは母親になれないひと」などと看破することがその年齢でできるなんて、仙人のような大人ではないか!としか思えないのである。まあ、それは私個人の未熟さを起点にした勝手な感想に過ぎないのだが。ほかの人は、この十歳児をリアルな存在としてそのまま受け止められるのだろうか。

それにしても。前述した「そして、バトンは渡された」や、毒親に苦労しながら育った姫野カオルコの「ケーキ嫌い」や、この作品を読むにつけても、おいしいご飯というのは、孤独な子どもの特効薬であるのかもしれない。というより、人の幸せの重要な部分を、おいしいご飯が占めていることは確かだろう。人が社会で立派な業績を上げることも、家でおいしいご飯を日々作ることも、どちらも素晴らしいことであり、人生の重要な使命、課題であると私は心から思う。

     (引用は「宙ごはん」町田そのこ より)