家族と国家は共謀する サバイバルからレジスタンスへ その2

家族と国家は共謀する サバイバルからレジスタンスへ その2

98 (その2)信田さよ子 角川親書

自分に立ち返ってみよう。私は最初、無気力で何も自分で決定することができず、問題が起きると嘆いたり食欲を失い、倒れそうになる、病弱の母の存在が自分の行動を規定したのではないか、と考えていた。確かにそれはそうなのであるが、実はその背後には、常に大声で家族を威嚇する父の存在があった。父が母や姉を威圧する姿を見続けることで、私は自分がある程度上手にそれをかわす技術を身につけはしたが、時として逆鱗に触れることはあった。割れるような大声で怒鳴りつけられたり、一方的な暴力にさらされることもあった。だが、家庭ではそれが不思議なほど「そういうこともある」的な受け入れ方をされていたことも確かである。家庭はブラックボックスで、それが本来あってはならないことだという認識さえどこかで失われてしまう。

驚いたことに、私が父の問題行動について本気で考え始めたのは、むしろ結婚して父との距離ができてからである。もちろんそれ以前に、父からの脱皮、自立は私の大きなテーマではあったが、振り返って彼の行動がどんなに破壊的なものであったかを客観的に自覚できていたかというと、認識が甘かったとしか言いようがない。大声の響かない静かな生活に慣れて、初めて今までが異常だったと気づくに至ったのである。

世の中には「親の愛」という神話がある。どのような子でも親はかわいいと思い、愛情を注ぐものである、という神話によって虐待はしつけの一環とされる。そして、子どもの側に立てばその行動がどんなものであるかという疑問すら発生する余地が失われる。実際、虐待事件において加害者である親は「しつけのつもりだった」と声をそろえて言う。だが、その論理はADやDVという概念によって少しずつ揺らいできた。親を非難してもいい、否定してもいい、という発想の革命が、どれだけ子の立場を救ってきたことか。信田さよ子は、実親が亡くなったことによって見違えるほどに生き生きと回復するクライアントを大勢みてきたという。そういうクライアントに対してカウンセラーは「良かったですね」とさえいう。それが許されることが、とても大きな意味を持つのである。

DV被害者やADのクライアントが、自分は実は被害者であると気づくことには大きな意味がある。暴力や暴言を受けるのは、自分が至らなかったからだ、出来が悪いからだ、もっと頑張っている人がいるのに私だけがそれをできないからだ、と被害者は考えがちである。そこから脱して、夫や親の暴力は間違っている、やってはいけないことである、と自覚することで、初めて問題の存在が明らかになっていくのである。

私は両親が「こうあれ」と押し付けてきた価値観に答えられない子供であった。そのことに罪悪感を持ちつつ、自分が自分であることを押し通したいという願いを捨てられずに成長した。そのために思考がゆがんだり、行動に困難が伴ったり、他者とうまく関われないと感じたこともあった。両親は敬虔なクリスチャンであり、その基盤には神の存在があったので、戦う相手はいったい誰なのか、時として混乱もした。だが、今になって振り返れば、やはりあれは、父の割れるような怒鳴り声と、時として抑えきれずに発生する暴力と、それを止められないばかりか、いけないことだと認識することすら忘れた母の無行動、あるいは私が父に背いた結果として健康状態を悪化させる母、という無言の圧力が私を規制していたのだと思う。その意味で、私もまた被害者であったと言える。

だが、その一方で、では、私は両親を「悪」と規定できるかと問われると、なかなかそうは言えないのである。彼らは加害者でもあったが、それでも私の親であった。家を与え、食べ物を与え、学校に行かせ、時に笑い合うこともあった。間違いなく、父はまじめな人であった。ただ、感情を抑えることができず、自分以外の価値観を理解せず、他者の気持ちに寄り添うことが困難な人だったのだ。

父が熱心に通った教会の牧師は父を人格者という。神の御前で真摯に生きた人であるという。まさか家庭内であんなに怒鳴り散らし、思い通りにならないと暴れる人であるとは夢にも思っていない。父の葬儀において牧師は父をたたえ、私はそれに対して首をかしげずにはおられなかった。それを見た私の娘は思わず笑った。父を人格者とみる社会の一員としての牧師と、そうではない姿を知っている家族の一員としての私と、その関係性を知っている、私の父とは距離のある、そしてそんな場でもつい笑う自由を持っている私の娘。そこにある壁、あるいは距離を思って私は気が遠くなったし、そんな娘の存在に、逆に助けられもした。

父が亡くなって数年がたつ。あらゆる判断を父に依存してきた母は、足元が大きく揺らいでいた。気が付いてみれば、母は何一つ自分で決めずに父に規定されてきた。掃除機が壊れたので新しいのを買うかどうか、どんな製品で何色にするか。母は、そんなことすら一人では決められない人であった。そのことに、私は、父が死んで初めて気づいた。そんな母が、父はいかに傍若無人だったか、支配的で暴言に満ちていたか、思い出を語る。自分がいかに抑圧されていたか、ひどい目にあわされたか。だが、最後には、晩年、人が変わったように優しくなったこと、そして、父の死後、母が経済的に困らないように準備してくれていたことを感謝して話は終わる。毎回がその繰り返しである。

母の話に嘘はない。父は、母に対して加害者であったが、生涯を通しての伴侶でもあった。私にとっても抑圧的、支配的で戦うべき相手であったが、保護者たる父親でもあった。加害者であり「悪」であるという想定は父の一部ではあるが、それがすべてではない。私自身について言えば、なぜ、NOと生きているうちに伝えなかったのだろう、あなたは間違っている、と言わなかったのだろうという後悔が残っている。なぜ、あの時私はああするしかなかったのか。なぜ、あの時私はこう言わなかったのか。様々な事柄を思い出しては、なぜ、どうして、と後悔せずにはにはいられない時期が、父の死後に、私にはあった。父との相互理解は、もう二度と手に入ることがない。たとえ父が生きていたとしても、私の言葉が本当の意味で伝わることなど、おそらくない。それがわかっているにもかかわらず、語り合い、伝え合う努力をしなかったことを後悔せずにはいられなかった。

DVや性暴力、ストーカーなどに対しての被害者援助は、暴力そのものから距離を取るという方法、または暴力行為の犯罪性を告発する方法が多く採用される。つまり、被害者援助は加害者へのアプローチを否定して行われてきたのである。だが、信田さよ子は、被害者支援に加害者へのアプローチは必須である、と主張する。「彼らの暴力は否定するが人格は尊重する」という姿勢である。そこに私は共感する。相手を「悪」と切り捨てることでは決して解決しない感情が被害者の側にある。私は、結婚によって父との距離を取ることはできたが、それでも彼の死後に残った後悔は永遠に解決しないままである。母もまた、父の暴力性を糾弾はしても、最終的に彼という存在を認めることで心の安定を図っているのが見て取れる。正義を振りかざして一方的に断罪するのではなく、問題の所在を明らかにしつつ互いの関係性を変えていく努力をする方向性。それが可能であれば、それこそが被害者、加害者の双方を親和させ、問題を解消していく道筋につながるのではないか。一方的な権力者と被支配者の関係性から、それぞれに人格があることを認め合い、適度な距離感を保って家族を構成しなおす方法論。正義と悪の対決という構図には落とし込まないやり方。それは加害者を理解するということも含めて行われるべきなのだ。母と会うたびに、父について何度でも語り合う私たちは、その会話を通じて、もう一度父を理解しようとすることで、私たち自身を癒す試みを続けているのかもしれない。

信田さよ子は、戦時中に、満州や中国本土や南方で日本軍戦士が大勢、精神を病んで入院した事実を指摘する。それらは恥として封印され、患者の多くは入院したまま死亡したり、あるいは回復して帰宅したのちに家族に苛烈な暴力をふるったりもしたという。彼らのトラウマは戦闘行為そのものよりは軍隊生活の中の私的暴力(リンチ、いじめ)に起因するものが多かった。戦中に精神を病まずとも、戦後、復員して後にアルコール依存症になった男性たちもいた。80年代にカウンセリングを受けに来る女性たちの多くは、アルコール依存の父から受けた壮絶な身体的虐待や母へのDVの目撃を語っていたという。それらが当時のACブームの根底となったとさえいえる。戦争トラウマが自己治療としての飲酒を伴い、結果、家族へのDVや虐待へとつながっていく。国家の暴力と家庭の暴力は相似している。親の愛という神話によって虐待が隠されたように、軍隊における精神疾患が恥として封印されたのも、同じ構造である。(そういえば、私の父も予科練飛行兵の一員であった。壮絶な空襲経験や、焼死した仲間の遺体を大量に積み上げて火葬した話なども聞かされたものである。その経験と、彼の威嚇行動が関連するものであるかどうかは私にはわからないが。)

DV加害者は悪、被害者は善と言った正邪論によってDVがすり替えられることを避けよ、と信田さよ子はいう。共産主義や社会主義が正義とされた時期があったとしても、その正しさを盾に、それらがどれほど権力化して行ったかを私たちは歴史から学んでいる。DVにおいても「被害者は正しい」とだけいうのではなく、あくまでもレジスタンスを駆動するための根拠としての正しさの限定が必要なのだ。DVを長いプロセスでとらえると、権力関係が解消されれば抵抗も必要なくなる。加害者が自らの暴力を認め、謝罪や償いを行って変化すれば、抵抗の必要はなくなる。「暴力は否定するが、人格は認める。」その態度こそに、私は光を感じる。

支配され、抑圧されていることに気づくこと。その被害者であると気づくこと。それにどう抵抗するか考えること。そして、それを正邪論に落とし込まずに、相互理解を目指すこと。それらはまさしく政治的な態度である。家庭の中で自分を見つめ、その構造を考えることと、社会や政治はつながっている。改めて、そう思える一冊であった。この一冊を通して、私は自分の人生を振り返る機会を得た。

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