家族と国家は共謀する サバイバルからレジスタンスへ その1

家族と国家は共謀する サバイバルからレジスタンスへ その1

2022年7月24日

98 信田さよ子 角川親書

信田さよ子の著作は何冊か読んでいる。(「カウンセラーは何を見ているか」 「母・娘・祖母が共存するために」 「母からの解放」 「共依存・からめとる愛」など。)私は、彼女の本を読むたびに、心のどこかをめくりあげ、自分と向き合わざるを得なかった。彼女は公認心理師、臨床心理士であり、カウンセラーとして母と娘の関係性を中心に、家族の抱える問題を探り続けてきた。そのテーマは私の成育歴や日々の生活にも深くかかわる問題であった。

この本は、彼女のカウンセリング歴の集大成ともいうべき本である。心に引っかかったり気になった部分に付箋をつけて読んでみたら、付箋だらけになってしまって笑った。どうすればこの本で私が考えたこと、感じたことを記録できるだろうと逡巡している間に数日たってしまった。うっかりすれば単なる自分語りになって、どんどん本の内容から遠ざかってしまいそうにも思えた。

まじめではあるが、思い通りでないと大きな声で威嚇する父親と、いつも周囲の顔色を見て他者に答えることだけを是とする母と、運動も勉強も優等生でありながら、友人関係でしょっちゅういじめられたと訴える姉に囲まれて私は育った。それしか知らなかったから、家庭とはそういうものだと思っていた。それを耐えがたいと感じるようになり、家を出たいという願望を持ち、結婚して家を出、妊娠、出産、育児を経て、私は自分の抱えている生きにくさの存在に気づき、それと向き合い、考えた。そして、そこから徐々に開放されていった。父が亡くなり、一人暮らしとなった母を月に一度、泊まりがけで手伝いに行き、そこでじっくりと話をするようになると、また新たな気付きがあり、発見があった。それらの経過は、この本に書かれている様々なことと不思議なほど呼応していた。三十年以上の時をかけて、私は私をカウンセリングし続けてきたのだろうか。

私は、わが子がごく小さい頃にADという概念に出会った。アダルトチルドレンである。子ども時代に親との関係性で何らかのトラウマを負った成人が、周囲の期待に応えようとしたり、NOが言えなかったり、完璧主義に陥ったり、被害妄想が激しかったり、承認欲求が異常に強かったり、自己処罰的だったり、しがみつきと愛情を混同したりし、楽しむことができない、という状態を示す。自分の内部にそういう部分が多々あると感じたし、わが姉には、それがさらに顕著であると思った。周囲にもAD的要素のある人たちは大勢いた。当時はADという概念自体が一種のブームだったのかもしれない。それに対して、何でもかんでも親のせいにするな、と主張する人もまた結構な数存在していたし、それにも一理あるように思った。大人になったら結局の処、自分に責任を持つのは自分だろう、という思いもあった。そして、何より切実に、わが子をアダルトチルドレンにしないために、母である私はどうすればいいのか、という問いがあった。

子供が問題を抱えると、母親の育て方に原因を求められることが多い。だが、核家族の中で家事や仕事をこなしながら、一人で子供を育てることはどれだけ大変か。自分の時間を削り、睡眠を削り、家族のために奉仕し、その結果、子どもが問題を起こすと、すべての責任を負わせられる。母親とはなんと重い荷であるかとつくづく思う。

信田さよ子は、因果論を脱せよ、という。例えば不登校の原因は母親の育て方が原因であるとされる場合が多い。決して父親ではない。子どもに問題が起きれば因果論で母親が責められる。その責めが、子どもへのさらなる「良くなれ」「普通になれ」という圧力へ向かい、問題を悪化させる。だから、因果論ではなく、循環論を彼女は説く。家庭で問題が起きているとき、そこに起きている悪循環を見定め、一番止めやすい部分で循環を止めることによりブロックする方法である。たとえば「なぜ息子が暴力をふるうのか」ではなく「両親がどのような言動をすれば暴力を振るわないでいるか」を問う方法論である。本人が自分の行動を問題行動と認識しておらず、周囲の人間だけが困っている場合、周囲の対応を変えることで問題行動を止める方向を模索する。苦しみ続けており、最初に援助の対象となるべきなのは、本人ではなく周囲の人間である。いわゆるシステム論的家族療法がそれであった。(これはアルコール依存症治療にも大きな影響を与えたという。確かに、お酒を飲みすぎていちばん困っているのは本人ではなく、それによる余波を受ける家族であるからだ。)

母親だけが悪いという原因論を脱する視点を与えられることで、母という役割の重荷はほんのわずかでも減らすことができる。だが、もうひとつ、別の問題がある。DVである。妻を殴る夫、妻に暴言を吐く夫がいる。この場合、夫が加害者、妻は被害者である・・とは単純に行かない。現在、児童の面前でのDVは虐待の一形態であるとされている。妻は夫に殴られながら、それを止められないことで、子どもへの虐待の加害者としての立場まで負わせられる。そんな夫から逃げ出さないこと、自立しないことで子供への虐待に加担しているとされ、かつ、共依存という言葉によって、実は夫の暴力を維持し支える側にも立っているとみなされ得るのである。

現状で、児童の虐待に対応するのは児童相談所であり、女性のDVに対応するのは女性相談所である。その二つは互いに連携しあっていない。女性相談所は、DVからはとにかく逃げろというアドバイスを出すことが多い。だが、子どもを置いて逃げ出せば、子どもが虐待の対象となり、子を捨てた母として彼女は糾弾される。一方、児童相談所は子供を保護することはできるが、DVにさらされる母親は前述したようにむしろ加害者としての側面から非難の対象となる。このように母親は、どこまで行っても重い荷を負わされ続ける。

アダルトチルドレンという概念との出会いから、子供をただ幸せに育てたいという単純な願いを持つ私は、自分が加害者になるのではないかという恐れ、あるいはその可能性を心に留めながら、その一方では、なぜ、母親ばかりが重荷を背負わねばならないのかという疑問とも向き合い続けてきた。たとえば、テストの点数が悪いと母親に罵倒され、睡眠時間を削って勉強させられる子供や、いつも良い子でなければいけないという無言の圧力に支配された結果、問題行動を起こすような子供はどこにでもいる。それは母が過大な要求を子供に突き付けた結果だと認識される。だが、それはその母親ひとりを責め、そこから逃げ出せば解決する問題なのだろうか。

長くなるので、その2へ続く