小説家の一日

小説家の一日

7 井上荒野 文芸春秋

「生皮」以来の井上荒野。しゃれた表紙だわ。翻訳作品みたい。短編が十個入っていて、それぞれに面白い。ありふれたシチュエーションのようで、実は井上荒野じゃないと書けない切り込み方。振り回されているようで、実はちゃんと自分の足で立っていることがわかる。この人、大丈夫だわ、と思える。どっしりとした読後感。

「緑の象のような山々」は不倫の物語。若いころ最初に働いた職場にはこんな話がごろごろ転がっていて、優し気な言葉を吐く男たちに騙される若い女もたくさんいたっけ。でも、本当はそれが嘘なんだと知っていて、騙されたふりをしているだけだったりもして。なんてばからしいの…と呆れて見ていたけれど、騙されるのはどっちも同じ。だとしても、妊娠して体が傷つくのは女だけだものね。そこは忘れてはいけない。

話は急に飛ぶけれど、昨夜、録画しておいた「100分deフェミニズム」をみた。なんか、感動した。上間陽子さんが「体を使うことについては、甘く見ちゃいけないと思うんです」と発言していた。たった一度のレイプ、たった一度の性的虐待だったとしても。幼い頃のちょっとした出来事であったとしても。言語化できない、あいまいな記憶しか残らない、それが本当かどうかもわからないとしても、その経験は残る。それを語る言葉は、時間経過によって変容を遂げる。それに寄り添うことはとても難しい。女性の体を物のように、道具のように扱いながら、言葉だけは優しいような男たちが世の中には確かにいて、そういう存在がどれだけひどく女性を傷つけているか。そんなことを、この本を読みながら唐突に思い出す。

女性は、仕事に半身で立ち向かう。すべてどっぷりつかりこむのは男だけだ。日々の生活、育児、介護。いろんな雑事と共に女性は生きている。本当はそれは楽しいことなのに、だからこちら側に私たちが引きこんでいけたらいいのに、というようなことを上間さんは言う。その語り口、表情に私は感動する。人に寄り添う、大事に思うということをこの人は確かに心の内に持っている。

「NO」と言ってもいいんだ、と教えなければ知らない、という現実を彼女は語る。自分の体を自分がコントロールしていいんだという当たり前のことを知らない十代の女性がいる。沖縄には基地があって力で支配することを男たちは見て覚えて、女性はそれに抗えない。男性は、そして私たち本土の人間は罪が深い、と上野千鶴子さんもしみじみという。怒りを感じること、嫌だと思うことすら「怒ってもいい」「嫌だと思ってもいい」と誰かに教えられ、許可を与えられないとできない女性たち。それは、少数派ですらない。そんな女性たちはまだ大勢いる。「普通こうでしょう」「みんなそうするでしょう」に流されて、自分の感情すら自分で受け止められない、肯定できない存在。もっと、自分を見つめよう、知ろう。そこから出発しなければ。

この短編集の女たちは、でも、みんな自分の頭で考え始める。だから、めんどくさかったり、苦しかったり、悲しかったりもする。けれど、それが生きているということだ。人が生きるってそういうことだ。なんか本からどんどん離れたかもしれないけれど、今日の私が考えたのは、そんなことだった。