文盲

文盲

2021年7月24日

「文盲 アゴタ・クリストフ自伝」アゴタ・クリストフ

パルティオゼットで知り合った高校二年のお友だちから教えていただいた本。

パルティオゼットにいると、時々、びっくりするくらいの読書力を持った中高生に出会う。本好きの人と知り合うと、何がいいって、今まで知らなかった面白い本や作者を教えてもらえるってことだ。それが若い人だったりすると、さらに新鮮な情報がもらえて、とても嬉しい。もっとも、この作者は、大人の間でも、かなり評判を呼んだ方らしいけれど。

>私は読む。病気のようなものだ。手当たりしだい、目にとまるものは何でも読む。新聞、教科書、ポスター、道端で見つけた紙切れ、料理のレシピ、子供向けの本。印刷されているものは何でも読む。
(「文盲 アゴタ・クリストフ自伝」アゴタ・クリストフより引用)

これは、私だわ。私も、常に活字を読んでいたいと思うから。活字中毒の人間って、どこにでも、どんな年代にも、いるもんだとつくづく思う。

作者は、ハンガリーの生まれ。母語であるハンガリー語は9歳の時に取り上げられ、ドイツ語を押し付けられ、11歳ではロシア語を押し付けられ、22歳でスイスに亡命してフランス語を使わざるを得なくなった。

活字中毒患者が、読むべき母語を失う悲痛を、私は想像して、とても恐ろしくなる。アゴタ・クリストフは、大人になってから、フランス語をゼロから学び、そして、それを使って文筆で身を立てるまでになる。
この本の最後の文章は、淡々としているのに、ひどく胸に突き刺さる。

>わたしは、自分が永久に、フランス語を母語とする作家が書くようにはフランス語を書くようにならないことを承知している。けれども、わたしは自分にできる最高をめざして書いていくつもりだ。
この言語を、わたしは自分で選んだのではない。たまたま、運命により、成り行きにより、この言語がわたしに課せられたのだ。
フランス語で書くことを、わたしは引き受けざるを得ない。これは挑戦だと思う。
そう、ひとりの文盲者の挑戦なのだ。
(「文盲 アゴタ・クリストフ自伝」アゴタ・クリストフより引用)

言語は、人の思考の基礎をなし、血肉ともなる。成人してのち得た言語でものを考え、表現することの困難さ、苦しさを思うと、わたしは気が遠くなる。そして、ひとりの人間を、こんな風に翻弄した時代、政治、国家と言うものの残酷さを思う。

上記のような感想をパルティオゼットの日記に書いたら、「外国語を学習すると、自分の中に人格があらたに築き上げられるのを感じます」と言うコメントをいただいた。たぶん、アゴタ・クリストフが母語でないフランス語で表現したからこそ、彼女の作品が世界中に衝撃を与えたのだろう、ということも含めて。

もっと卑小な経験ではあるけれど、転勤族の子だったわたしは、さまざまな方言の話される場所を転々として育った。響きの違う言語の通用する場所で、途方にくれるような感覚を味わい、段々に慣れ、自分もそれをしゃべるようになりながら、その度に少し違った自分を生き直す様な気分を味わったものだ。方言の違いだけでもそうだったのだから、言語の構成そのものが変わったら、その変化が人生に与える衝撃はすさまじいものだろう。

もうひとつ、感じたこと。亡命した彼らを迎え入れてくれた国は、住む場所、働き口、子供達の健康と安全を与えてくれた。それでも、彼らは苦しかった。禁固刑が待っているというのに、ハンガリーに戻った仲間も、自死を選んだ仲間もたくさんいたという。

翻って、私たちの国は。亡命した、国を逃れてきた人たちに何をしているのだろう。私たちが、アゴタのような運命に直面した時に、誰が、手を差し伸べてくれるのだろう。そんなことも、考えた。

2008/5/18