朝日新聞政治部

朝日新聞政治部

150 鮫島浩 講談社

学生時代、私は朝日新聞社でアルバイトをしていた。所属は図書部。朝日年鑑という年鑑・統計本の編集である。朝日年鑑には各種団体が取った様々な統計データや国会議員、著名人、企業の住所録などをまとめた人名録が収録されており、毎年、その内容を確認したり新しい項目を付け加えたりするのが私たち学生アルバイトの仕事であった。それ以外にたまに取材文を書く機会をもらったり、あるいは選挙前の世論調査の手伝いなどもしていた。隣には週刊朝日のデスクもあり、当時、新聞記者にあこがれていた私にとっては現場の空気を知る良いバイト先であった、はずである。

だが、現実には、その部署はいわゆる吹き溜まりのようなところであった。何らかの不祥事で第一線を外された記者たちが片隅に追いやられ、仕事をあてがわれ、バイトを使って誰でもできるような整理編集を行う。バイト代は破格であったし、上司はよく豪華な食事をおごってくれもした。だが、そこで聞かされる話は、新聞社内の愚痴や、権力闘争に負けた人間の恨みつらみが多かった。第一線にいる記者がいかに汚い手を使っているか、卑怯であるかを苦々しく聞かされることも多々あった。

それでも毎日、新聞社の片隅にいて仕事をしていると、新聞記者の仕事はやっぱり生き生きとしては見えた。当時の朝日には、攻めた記事も自由な空気もあった。ただ、そこに数年、通うことで、私は新聞記者を目指すのはやめようと思った。精神的にも体力的にもよほどタフでなければできる仕事ではない、とつくづくわかったからである。また、今はどうか知らないが、当時は女性記者は家庭欄や週刊誌の文化欄などを担当するしかないような風潮が感じられたことも影響したのかもしれない。

そんなこんなで新聞社を目指すことはなかったが、それでも学生時代の若い数年間を過ごした場所として、朝日新聞社は私にとって懐かしく親しい場所だという思いは残った。実家がずっと朝日新聞を購読していたこともあって、大人になってからもずっと朝日新聞を購読し続けてきた。

だが、ここ数年で朝日新聞はとてもつまらなくなった。権力にすり寄った記事が増えたし、攻めるような取材姿勢も感じなくなった。ネットで次々と入ってくる情報が全く掲載されず、表面を撫でさすったような記事が多いように感じられた。夫には、ずいぶん前から、もう朝日はつまらないからやめてしまおうと提案されていた。が、何しろ小学生のころから朝日の活字になじんできて、しかもその中で働いたこともあるという気持ちがストップをかけていた。そこへ、例の統一教会関連の問題が起きた。どう考えても朝日新聞の報道姿勢は軟弱であった。そこで東京新聞を一週間ほど試読したら、まったく違う報道姿勢が感じられた。朝日よりずっと自由で攻めた記事が載っていた。そしてついに我が家は朝日新聞の購読をやめて、東京新聞に乗り換えた。

…という事情があった後に、この本である。夫が読んで、うんざりするけれど読む価値はある、というようなことを言った。それで読んでみた。この本は、福島原発事故にかかわる「吉田調書」報道で解任された鮫島記者が、入社以来、朝日新聞社内でどんな仕事をしてきたか、どんな出来事があったかを書いた本である。1994年から現在に至るまでの新聞社内(政治部、社会部、経済部など)の出来事が書いてあるため、これを読めば、ここ30年程の社会情勢がおさらいできる。いわば極近の現代史の本でもある。そういう意味でも勉強になった。

だが、ここに書かれたことは、いわば新聞記者たちの権力闘争の記録でもある。できるだけ強い地位に立つことで、書きたいことを書き、それを新聞紙上に掲載する。新聞社としての立ち位置、姿勢を自分が決定できる。権力を持ったデスクや役員にかわいがられること、担当になった政治家の懐に入り込むこと、警察の内部に取りいること。ネタ落ちを防ぎ、スクープをものにすること。記者として社内で称賛されること。そういうことを目指す記者たちのストーリーでもある。

いったい、新聞とは何のためにあるのか、報道とは何を目指しているのか、何のために新聞記者となり、いったいどんな社会を目指しているのか。そういうことが、この本からはほぼ読み取れない。少なくとも私はそう感じた。近年の政治家が、目の前の問題を解決することに汲々として、その人の政治理念や理想とする社会の在り方を全く表明せず、また感じさせないようになってしまったのと同じように、この本に登場する新聞記者たち・・筆者も含めて・・には、そういった根幹にあるべき基本理念が感じられない。頑張ったけれど、理解されなかった、新聞社は死んだ、自分は一人でも発信し続ける、という筆者の訴えはある。あるが、それは、何を目指してなのか、どんな理想があり、願いがあり、社会があるのか。私には読み取れなかった。

そして、社内で新聞記者として最後まで戦ったはずの筆者からすら、そういったものが読み取れないのであるからこそ、朝日新聞はもう面白くもなんともないのだな、と改めて納得してしまった。そういうことだ。