歴史を学ぶということ(その1)

歴史を学ぶということ(その1)

2021年7月24日

「日本という国」(理論社「よりみちパン!セ」)は、割に薄いムックだけれど、戦後史を簡潔にわかりやすくまとめてあります。

憲法成立と、戦争の国家賠償、米軍基地の問題等のかかわりが、整理されていました。私自身、これらの問題の有機的なつながりをきちんと理解していなかったのが分かりました。とりわけ、国家賠償の問題は、認識不足だったと思います。外交上の解決済みの問題、という言い方の問題点がやっと理解できました。

授業でとかく取りこぼしがちなこの部分、良い教材だわと思い、高1の息子に渡してみたところ、「表面上は分かったつもりでいるけれど、たぶん深いところでは理解してないと思う。結局、ちゃんと知識の裏づけがないとわからないんだよ。」と言っていました。確かに、突っ込みは浅いです、何しろページ数が少ないですから。

「もう少し詳しく知りたい人は、私の『〈民主〉と〈愛国〉』を読むといいでしょう。厚い本ですが、難しくないので読めると思います」なんて書いてあったので、うかうかと「〈民主〉と〈愛国」を借りてきたら、重くて厚くて、ついでに難しい本でした。うそつきね、小熊さんてば。でも、この難しさは、息子の言うところの「表面上は分かったつもりでいるけれど、たぶん深いところでは理解」できない感覚そのものだと思います。

「〈民主〉と〈愛国〉戦後日本のナショナリズムと公共性」   小熊英二

この本は、戦後思想史の中でとかく対立しがちな〈民主〉と〈愛国〉というコトバが、どのように意味づけられ、使われてきたかを、たくさんの識者の言論を追求することで分析、解明することを目しています。それにより、現在の歴史認識が、如何に過去の批判を見当違いに行っているかを検証するものでもあります。

たくさんの識者には、政治家も哲学者も文学者も思想家も社会科学者もいます。そういう一人ひとりを生い立ちからじっくり追いながら、その人の言説がなにを目指していたかを解明し、いわばひとつの言葉に翻訳しようという作業がされています。それは、気の遠くなるような大量の資料を読み解くところから始まっているわけです。

そうやって「翻訳」されたはずのこの本が、私には「表面上でしかわからない」物になってしまっているということに愕然とします。それは、作者が悪いのでもなければ、本が悪いのでもなく、私が悪いのでは・・ちょっとあるかもしれないけれど、結局のところ、歴史というのはそういうものだ、ということになるのでしょう。

歴史というのはひとつの書物に書ききるようなものではなく、人により、場所により、環境により、立場により、呆れるほど違った側面を持つ、決して全部を捉えることのできない壮大な物語なのでしょう。この本ですら、大きな砂浜のごく一部の砂をバケツにとって眺めているようなものに過ぎません。

歴史を学ぶという事は、社会を学ぶことであり、文学を学ぶことであり、哲学を学ぶことであり、科学を学ぶことであり、人間のありようを学ぶことである。その広大な世界にめまいすら感じます。

で、あるのにね。学校の歴史の教科書は、薄くて、内容もほんとにちょっぴりで。しかも、学年内に終わらなくて省略する部分すら、あるわけです。それが、たいてい、近代史なのよね。歴史を学ぶということの意義を、もう一度、私たちは見直すべきじゃないかな、なんて厚い本にうなされて、ちょっといきがって考えてしまった私です。

その2へ続く→

2007/2/13