母は娘の人生を支配する

母は娘の人生を支配する

2021年7月24日

「母は娘の人生を支配する なぜ「母殺し」は難しいのか」斎藤環

この手の本を必死に読んだのは、もう十年以上前のことで、それ以降は、あんまり手を出さないように、出してもサラッと読むように心がけていたのだけれど、久々に読んでみようと思ったのは、表紙がよしながふみだったってこともあるのかもしれない。
実際問題、よしながふみを読むと、母と娘、あるいは親子関係、ジェンダー、フェミニズムなどの問題があちらこちらに潜んでいることに気付かされる。
よしながふみは、それを、静かに穏やかに消化して、絶対に声高に主張しないけれど、読んでいると、じんわりと心のなかにあるある種の問題にしみてくる感覚が、いつもある。それは、不愉快なものではない。

かつて何冊か読んだ斎藤学氏のACに関わる本は、確かにある種の発見と理解を私の中にもたらしたけれど、もう、それはいいや、と思うようなものも、同時に生まれた。いつまでも、親のせいにばかりしていて、どうするの、と。
以来、あんまり読まないようにしたんだと思う、ある種辟易した部分があって。
〈誤解がないように確認すると、この「母は娘の・・」を書いたのは、「学」じゃなくて「環」の方ね、同じ斉藤でも。)

この本は、それに比べると、もっと分析が冷静で、かつ、客観的で、しかも、「じゃあ、どうしたらいいの」に安易に答えないという点でも、誠実。誠実ではあるが、だから、解決に繋がるわけではないということも言える。
言えるが、「理解と解決はしばしば一体のもの」という表現には、頷くものがある。
というか、本を読むなどという行為は、その程度のことなのだ。
この一冊で、人生の悩みがパーッと解決したわー、なんていう方が怪しい、おかしい、胡散臭い。
と、先に結論に至ってしまっているけれど・・・。

タリウム少女事件の報道から、母と娘についての投書を求めた朝日新聞への大反響から、この本は始まる。
鞄、机の中、私信から電話の会話まで検閲され、服装から行動まですべてに干渉する母親に悩む東大生や、34歳にもなって、母親に拘束され、病んでいる女性など。
驚きだったのは「流れる星は生きている」の作者、藤原ていの娘が、母の愛情が感じられずに自殺まで図ったことがあるという事実だった。

母と娘の問題は、ある時期まで私自身の問題でもあった。あったけれど、それは私の中ではある程度消化され、整理がついた問題となっている。
けれど、気がついたら、私にもいつの間にか女の子が生まれていて、その子はいつまでも小さな赤ちゃんではなく、あれこれ生意気なことをいう一人前の娘になっていて、おお、問題再び!なのであるなあ、と思ったことである。ああ!!

私は摂食障害を経験したこともないし、ひきこもったこともないので、その事実のみに関して言えば、外側からこういった問題については読むことができるのだが、それでも読んでいて、はっとする記述には出会う。たとえば、こんなところ。

最大のジェンダー格差の発生源は、なんといっても「世間」です。世間とは価値判断を予期することによって成立する価値判断の体系、という極めて特殊でややこしい価値規範です。言い換えるなら、存在するとしか思えない「世間様」の視線に自分がどう映るか、この一点のみを価値規範とするような、極めて特異な判断のシステムです。
(「母は娘の人生を支配する なぜ「母殺し」は難しいのか」斎藤環  より引用)

日頃から、いわゆる「世間体」について感じていたことを、このように表現すれば言い当てられるのか、と感心してしまった。

私には、子どもを持たない友人が多数いて、彼女たちとは、子どもの話はしないようにしようと考える。相手が、それに興味を持てないのは自明だし、それに、子どもをもつということが、自分のなかにどんなものを引き起こすかは、もってみない限り、絶対に理解できない、と思うからだ。

・・・と私が感じていたことを、ハリエット・レーナーという心理学者が言っている、と読んで、膝を打ってしまった。
子育ての過程で、多くの女性が「情緒的反応者」の役割を担うこと、それがまた、彼女の過剰な責任感を刺激し、

>多くの母親は、自分が「全く無力だと感じているのに、それでも全能のように思われる」という矛盾の中で宙吊りになります。このため、どんなにそれが不合理であると頭では理解していても、自分がつねに結果をコントロールしているという考えに、いつの間にか引きずられてしまうのです。
(「母は娘の人生を支配する なぜ「母殺し」は難しいのか」斎藤環  より引用)

は、まさにその通り、と我が身を振り返って思う。
そこから、作者は、最近、「発達障害」診断が過剰であると感じながらも、それによって、母親たちが、過剰な責任感に押しつぶされてしまうことから救っている現状を考え、「政治的判断として」指摘しない、と書いている。実に、同感。

母親の何気ない一言が、娘の人生を支配する事例の数々を見ると、もう、娘になんて、何も言えないではないか!とさえ思うところだが、しかし、そういうこともある、と理解すること、また、母親も間違いやすい不完全なひとりの人間であると子に理解させること、母と子の密室的な関係から、それだけではない、と気づかせる第三者がかつねに関連する関係性を保つこと、などさえあれば、・・・と気は楽になるものである。
というか、親子関係であれ、他の人間関係であれ、それが決定的に誰かを傷つけてしまう危険はいつだってあるのだよなあ、と思ったりもする。

と、ここまで考えて、先に書いてしまった結論に繋がるのだけれど、結局、こうすれば大丈夫、とか、こいつが全て悪いのだよ、みたいな言い方はできなくて当たり前で、人間なんて、あちこち頭をぶつけて、失敗したり、傷ついたり、苦しんだりしながら、なんとか明るい方へ明るいほうへと向かう気持ちと姿勢を大事にして生きていくしかないんですよね、はい、と思ったのでした。

2010/2/18