江分利満家の崩壊

江分利満家の崩壊

136 山口正介 新潮社

「瞳さんと」の山口治子を看取った、息子の正介氏が書いた本。この人が、父親の山口瞳の最期を描いた「ぼくの父はこうして死んだ」も読んだことがある。その時も、この家族のへんてこさに驚いたものだけれど、この本もまた、何とも難儀な家族の最期が描かれていて、苦い思いが残った。

「瞳さんと」にもある正介氏の睾丸炎のエピソード(まだ子供の正介が睾丸炎を起こして家でのたうち苦しんでいるのに、一人で車に乗りたくない母親は夫が帰るまでそれを放置し、夫の帰宅後にタクシーを呼んで病院に行ったという話。とんでもない苦痛があり、大きな後遺症が残ったという。)はすさまじいものだったが、この本にはその後日談が載っている。

春休みが明け、中学二年の一学期が始まってしばらく経ったとき、僕は母に訊いた。「ぼくが盲腸や骨折とか、あるいは命に関わるような病気になったときにもパパがいなかったら、救急車を呼んでくれないの」
「あら、もちろんじゃない。駄目に決まってるでしょ。ママが一人で車に乗れないの知っているでしょ」
母はまるで面白い冗談を聞いたわ、というように笑いながら、そう言った。そもそも、ぼくは勘定に入っていないらしい。

一人でいることができない、瞳氏無しには乗り物にも乗れない、そんな治子さんは、瞳氏が亡くなった後、意外にも平穏に暮らしていた、と思っていたが、これを読むとそんなことはない。ただ、正介氏が瞳氏の代わりを務めたにすぎない。そして、正介氏は、母の不安神経症(?)にほぼ人生をささげて生きていたのだ。

治子さんの不安神経症は、正介の産後、第二子の中絶に際して麻酔薬が体内に残されてしまった、あるいは胎児の体の一部が体内に残されてしまった結果である、と本人は固く信じていたという。が、正介氏が長ずるに従って、たとえ麻酔が残っていたとしても何年も経れば消滅しているはずだ、とか、胎児の体が遺されていたとしても、もう吸収されてしまっているはずだ、などと論理的に反論するようになった。それに対して彼女は今度は、中絶をしたのが実は藪医者で、お女郎さん専門の堕胎医だった、人を女郎扱いして、それで私はおかしくなったんだ、などとも言っていたらしい。ところが、本人のガンが判明し、入院が決まった辺りで、新説があらわれた。

初産の直後からの、いわば産後鬱病が長引き、それにつづく予定外の懐妊と堕胎のあとで精神の失調をきたしたときに、父が我が家の家族に特有の口の悪さでこう言い放った、と母は言うのだった。
「あなたの家はみんなおかしいから、あなたも、いつかおかしくなると思っていました」

正介氏は、この父のつめたい言葉が母の精神不安の根本原因である、と断定している。だが、治子さんには、どうやら虚言壁があるようだ。たとえば治子さんが何度も何度も話したという、意に染まないひととの結婚によって自殺した腹違いの姉のエピソードがある。そんなことがあったから、妹たちは自由恋愛で結婚できたのだ、と何度も語ったという。だが、その、結婚後に自殺したはずの姉は、治子さんの死後、戸籍を見たら、なんと十歳で亡くなっているという。だとしたら、あのエピソードはなんだったのだろう、と正介氏は不思議がっている。

治子さんは、継母にいじめられるかわいそうな私を王子さまが救いに来てくれる、という想像をするのが好きな人だったという。何か嫌な目に遭わされると、かわいそうな私、とむしろうっとりするようなところがあり、そして、いつも窮地を助けてくれるのが瞳氏だと信じ切っていたという。大きな妄想の中で生きていた人なのではないか、と思えてならない。

正介氏は、出来損ないだの、思ったような子ではなかった、などと両親から言われながら育ってきたらしい。母親の神経症に付き合わされ、病気になっても放置され、父が遠出するときは必ず家にずっといて母に付き添わねばならない。正業に就かず、ろくに稼ぐこともできないバカ息子の扱いを受けてきたようだが、そんな母の世話をせねばならなかったら、就職できるわけがないではないか。父の仕事に合わせて好きな時に休み、出張もできない、ずっとダメ人間扱いされてきて自信が持てない人間が、どうしてまっとうに就職できるというのか。

正介氏は今でいうヤングケアラーだったのだと思う。そして、それが当たり前であるという家の掟に縛られて、そこから逃げ出すことも、それがおかしいと気が付くことも難しかったのかもしれない。

父親が亡くなった後、父の遺した着物を洗い張りに出して自分のサイズに仕立て直してもらうという正介氏に治子さんは、そんなことは六十、七十になってからにしなさいよ、と言ったという。ぼくはもう還暦になるんですけど、と正介氏が言ったら「あらそう」と言ったという。子どもの年齢さえ把握していなかったのか。

そんな正介氏は、治子さんが亡くなったときに一人でタオルを顔に当てて泣いたという。

「僕、一人になっちゃったよ。僕一人じゃ、なにもできないんだよう。悪い子で悪かったよう。何にもできなくて御免よう。」
声に出して言ってみた。いまさら、遅いが、そう言わざるを得なかった。母は許してくれるだろうか。

還暦の男性の言葉である。母を亡くした男はみんな子供に返るのかもしれないが、それにしてもこれはないだろうとつい思ってしまう。私は冷たいだろうか。こんな言葉を言わざるを得ない大人を育て上げた瞳氏と治子さんは、いったい何を思うのだろう。「悪い子で悪かったよう」と六十の大人が泣く。親子関係とは、時に恐ろしいものだとつくづく思う。

正介氏は、本当にひとりになって、今、どうされているのだろうか。せいせいしているのだろうか。初めて、自分のことを自分一人で決めて、自分だけで生きていけるようになって、何か変わったのだろうか。親に悪い子だと思われなくても済む、一人の人生を、どうか少しでも満喫してほしい、と勝手に思う私である。

(引用はすべて「江分医利満家の崩壊」より)