河合隼雄のスクールカウンセリング講演録

河合隼雄のスクールカウンセリング講演録

2021年7月24日

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「河合隼雄のスクールカウンセリング講演録」
学校臨床心理士ワーキンググループ 村山正治・滝口俊子

2007年に亡くなられた河合隼雄先生の、十数年に及ぶ学校臨床心理士全国研修会における基調講演記録。一部散逸したものがあるという。とても惜しい。

スクールカウンセラーの研修会での講演であるから、私のような素人に向けたものではないし、職業意識に対する厳しい姿勢も感じられる内容ではある。でありながら、そうなんだよなあ、と頷いたり、おお、やっぱりそうであったか!と感動したりする部分が多々ある内容である。話題がいくどもかぶっている部分もあるが、それは、それだけ大事に考えておられたところなのだろうと推察されて、何度も読み返したくなる。

たとえば、こんなこと。

みんなが話し合いをして、「カウンセラーはいったい何なんだ。あれは何もしないで『なるほど』と言っているだけだ。あいつが辞めたらうちはうまくいくのではないか」となって辞めさせられるとしたら、これはカウンセラーが失敗しているのです。どこが失敗しているかというと、そういうカウンセラーは”葛藤保持力”が弱いのです。やはり全部をきちんと把握している場合は、こっちに「なるほど」、あっちに「なるほど」と言っていても、皆そう言いながらだんだん変わっていきます。(中略)
はじめは、来るなり「まあ、カウンセラーの先生、聞いてくださいよ」と言って、保健室の悪口はかり言っていた人が、「いやあ、○○君もあれで救われているかもわかりませんな」と言うようになってきます。それは、人間と人間が会話するからです。これは後でも言いますが、言語で表現して通じることのすごさです。
聞いてもらって、一度言葉に表してみると、そのことを”客観化”できる、あるいは、そのことを”相対化”できるようになります。それをしない間は”絶対”ということになっているのです。「悪いのは絶対に養護の先生以外にはいない」ということになる。養護の先生の方でも、「この学校が絶対に悪い」と考える。そう思うと自分が楽だからです。みな”絶対”と言うばかりで、互いに相手の言うことを聞く耳を持ちません。
ところが、カウンセラーに自分の考えを聞いてもらうと、”絶対”と思っていたことを”相対化”できるようになります。相対化できた後でふと見ると、案外いところがあると思います。また、養護の先生も、自分ばかり抱え込まなくても、担任の先生で話がわかる人がいると思えるようになってきて、みんなの中に少しずつ相対化が始まります。それまで堅固で動かなかったものがじわじわと動いていくのです。(中略)
カウンセラーはそういうときに、だれそれが悪いからやっつけろという仕事をしているのではなくて、全体として問題がどう絡まっているのかを見るのです。その全体の絡まりの中で、みんながどうにもならない心の葛藤を抱えている。その中にカウンセラーがいて、それら全部を聞かせてもらう。そういうことをやっていると、霧が晴れるようにすこしずつ変わっていくのです。

生きた人間に、自分の抱えている問題を言語化して説明する。そのことによって、問題が客観化され、相対化されていく。これは、表現することや会話することの持つ力の話だ。

私は、子どもがどうしようもなく困っている時、なにをしてやることもできず、ただただ、話を聴き続けたことがある。ただ、そうなんだ、大変だったんだ、辛かったんだねえ、としか言ってやれなかった。けれど、そうやって聞いてやるうちに、彼らの心がすっきりしていくのを見たような気がしていた。それは、私が親として何もしてやれない無力さをごまかすために感じたことかもしれない。それしかできないことを弁護するために思ったことかもしれない。だとしても、未熟な親である私は「では、こうしなさい、そうすればその問題は解決するであろう」ということができないので、聞くことしか出来なかった。それが、何らかの役に立っていたのかもしれないと思えることは、私には嬉しいことだった。

私はここやかしこで、読んだ本、出会ったできごと、感じたことなどを書き散らし、文章化することを業(ごう)としている。書くことに支えられているとさえ感じる。書くことで、私は自分を整理し、納得し、また先へ進んでいけるようなところがある。それは、問題を言語化し、客観化するという作業でもあるのだ。

話は少しそれるが、このブログで、私は主に読んだ本について書いている。本を読むのは私の生活の一部であり、その本からなにがしかの思考が広がることと、生活上のできごとから何かを考えるのは、ほぼ同じようなものである。そこに境目はない。だから、本のことを書いていても、そこから広がる思考は、今日あったできごと、食べたもの、交わした会話などにだらだらと広がっていく。そもそもは、そうやって、日々の生活を書くことと本について書くことはつながっていた。

けれど、子どもたちは大きくなり、それぞれのプライバシーをよりいっそう尊重せねばならなくなり、また、私自身家庭の事情、仕事や周囲の状況もまた、だらだらと世間様に晒せるようなものばかりではない。だから、だんだんに書けることは狭まってきた。それはアタリマエのことではあるのだが、でありながら、私はそれに窮屈さを感じたり、また、ある種の不誠実さを感じたりすることもあった。このまま、ここで、ただ本の紹介のようなブログを書いていいのだろうか。本の紹介なら、もっともっと上手に良いものを書く人が、ネット上に溢れているではないか・・・と思うようになってきていたのだ。

だが、たとえ書けることが狭まろうと、本の中身だけを紹介していようと、私はそこから言語化し客観化するという作業を行うことで、自分を整理し続けている。これは、私にとっては必要なことらしい。と、この本を読むにつけても、改めて思ったのだ。少々、不自由で、歯にきぬきせながらであったとしても。

というわけで、もうしばらく、このブログは書き続けようかな、と思っている。すっかり横にそれてしまったけれど。

もう一つ、印象に残った部分を引用する。

 もっと極端に言うと、「怒鳴りこまれたら勝ちと思え」と、私はよく言っています。親でも、先生でも、誰でも、怒鳴りこみに来る人がいます。怒鳴り込みにくる人というのは、突入するだけのすごいエネルギーを持っているのですから、そういう人は変わる力ももっていると思って間違いありません。「いったい、カウンセラーというのは何だ!違うんじゃないのか!」とか言ってきたら、それをいやがらずに、逃げずに、真っすぐにきく。そうしていたら、だいたい変わる場合が多いです。
私はよく思いますが、20分間本当に怒り続けられる人というのはほとんどいません。よほどカンカンに怒っている人でも「はい」と言ってきちんと聞いていると、「まあいろいろ言いましたが、いや、あなたのきもちがわからないでもないのですよ」というように必ず言ってきます。そのへんで、「ああ、わかってくださるのですか」というように言うと、だんだん雲行きが変わってきます。
ただし、その間にごまかしたり、逃げたり、ひっかかったりしないことです。そこに来るまでは、真っすぐにそれを受け止めていると、怒鳴り込みにくる人はだいたいこちらの理解者になることが多いです。

反論をする人は、理解者である場合が多い、と私もよく感じる。まっすぐ反論してくれる人を、まっすぐ受け止めれば、いつかわかってくれる、こちらもわかることができる。ただし、逃げたり、ごまかしたりしたら、絶対にそれは無理である。結局、誠実に耳を傾け、誠実に答えることが最も役に立つ。20分間、本当に怒り続けられる人は少ない、と言う指摘は、なんとも嬉しくも微笑ましいものであり、ちょっとした勇気を与えられた気がしたのだ。

追記。しかしながら、心が弱っているときは、まっすぐ受け止め、誠実に耳をかたむけることが辛い時もあるなあ、と思い返した。それは、私のキャパの問題なのだろう。

(引用は「河合隼雄のスクールカウンセリング講演録」より)

2012/4/1