漂流

2021年7月24日

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「漂流」角幡唯介 新潮社

ノンフィクションとしては「アグルーカの行方」以来の角幡さんである。相変わらずしつこいほど丁寧な取材を重ねて書かれている。

沈没した漁船から小さなゴムボートに避難して37日間海上を漂流した後に奇跡の生還を果たした漁師がいる。1994年のことだ。その時の報道がうっすらと記憶にある。船長は日本人だったが、乗組員は全員フィリピン人だったというのもなんとなく覚えている。

筆者は今までいろいろな冒険もの、探検ものを書いてきたが、今度はあらゆる漂流に関してデータを集めてそこから何か書こうとしていたという。そのための取材として、上記の漂流経験がある漁師の自宅に電話をした。すると妻が出て、彼はまた海に出て行方不明になってしまったというではないか・・・。

漂流経験をしながら二度も行方不明になった漁師、本村実を追って、取材が始まる。それは、宮古島の佐良浜という土地を起点に、海を生きる場とする人びととの対話の連続である。取材はグアム、フィリピンに及ぶ。

角幡唯介の執拗なまでの取材は、彼が新聞記者であったことに由来するのだろうか。関係者と思われるあらゆる人びとに連絡を取り、見つからなくても足を使って居場所を突き止めて話を聞く。漁船に乗り続けた本村実の心情を知るために、彼自身もマグロ漁船に乗り込み、長い航海を体験したりもする。そうした中から、彼は、陸で生きている自分とは違う海で生きるものたちの世界、人生に思い当たる。

船長というのはもはや職業ではなく、彼の人生であり、生き方である、と角幡氏は言う。職業は変えることが出来るが、人生や生き方は変えることができない。私がこの本で最も面白かったのは、そこである。船という狭い王国の中で生きる船長という人生は、陸には順応できない何ものかがある。それはロマンなどという美しいものではなく、もっとどうしようもないものなのである。ということを納得できるためには、これだけの事実の積み重ねが必要だったのかもしれない。

本は厚く、内容は時に冗長で、もっと簡潔にまとめれば更に面白い読み物になったに違いないと思う。が、角幡氏にはこの長さが必要だったのだろう。

全く違う話で恐縮だが、先日、娘の卒業式があった。長くかかった式典をあとから総括して、「校長と理事長の祝辞、在校生代表の送辞は全文カット」「学年主任の祝辞は主旨のみ残す。すなわち、『ピンチはチャンス!』と一言述べるに留める」「PTA会長の話と卒業生の答辞は残す」「卒業証書授与は代表ひとりだけが受取り、あとは名前を呼び、返事をするだけ」「吹奏楽部の演奏は1/3に縮小」すると、なんとスッキリとしたいい式になるだろうか、と家族で話し合った。耳障りのいいきれいな言葉だけ並べ立てた祝辞など聞く意味はない。たとえ拙くとも、本当の自分の言葉だけで語られた祝辞は心に残るものだ、と改めて感じた。

話が逸れたのは、いたずらに長い、ということへの感想をつい書きたくなったからである。この本に関して言えばこの長さは作者にとって必然であっただろうとは思う。が、読み物としては、もっと整理がなされても良かったのではないだろうか。

宮古島もグアムも、私にとっては美しい海のある寛げる場所でしかなかったが、この本を読んだことで、全く違う表情を持った場所として感じられるようになった。

2017/3/5