神になった武士

神になった武士

76 高野信治 吉川弘文館

出雲大社に行ったとき、本殿の東西に長屋のようなお社があるのを見た。ここは、神在月に全国から神様が集まったときの宿泊所なのだそうだ。日本中には、山ほど神様がいるから、これらの宿泊所の部屋割りはなかなか大変そうだ。天照大御神や素戔嗚尊などは、きっと良い部屋を割り振ってもらえるのだろう。徳川家康も権現様という神様になったけれど、年功序列から考えると、かなり下っ端クラスだから下座に置かれるのだろうか。となると、例えば我が家の近くには、江戸後期の学者が神様として奉られている神社があるのだが、その神様などは相当劣位にいて、軒下に座っておけ、程度のことになるのだろうか。ましてや、乃木神社の乃木さんなんぞはごくごく最近の人(神?)だから、新参者としてさらに隅っこに追いやられるのだろう。でも、明治神宮の明治天皇は、やっぱり天皇の筋だから、多少は良い席を貰えるのかな。

などと想像したことが頭に残っていて、朝のお散歩コースにある学者神社にお参りする度、神在月は出雲に行かれるんでしょうけれど、肩身せまいですよね、などと話しかけていた。そこへこの本だ。もしかして、そういうことが書いてあるのかなー、なんて思ったが、さすがに出雲大社の宿泊所の部屋割りの話ではなかった。

平将門から始まって、歴史上の武士たちが神となった総人数は、調べる限りでは2431人にのぼるという。そのうち87%程度が一ヶ所だけの神社に祭られているというから、極めてローカルな地元だけで奉られる神様になった武士が相当数いるわけだ。ちなみに、この本では神になった最後の武士は西郷隆盛だとしているので、乃木将軍は入れてもらっていない。武士が神様になるのだから、さぞかし立派なことを成し遂げた人だろうと思うと、そうとは限らず、悪人や災厄をもたらした人が、祟りを恐れて奉られていたり、むしろ病除けに効くとされていたりして、人間の心理の面白さ、複雑さを感じる。

吉田松陰は「釈迦も孔子も、今でも人々に尊敬され、ありがたがられ、おそれもするから、彼らは今も生きている」と妹に語っている。肉体は亡びても、死なずに今も生きていて、それは寿命が来たら死ぬ人間を超えた存在である、というのだ。そんなことを言った吉田松陰も、案の定、松陰神社で神さまになっている。出雲ではどんな扱いを受けているのかな。

神になった武士を調べることで、土着信仰やその土地の歴史が見えてくる。そういう意味で、これは歴史学習の良いテーマの一つだと思った。私がいま中学生なら、地元の神社の来歴などを調べて夏休みの自由研究ができるのにな。ウン十年遅かったわ。