神話的時間

神話的時間

108 鶴見俊輔 谷川俊太郎 工藤直子 佐野洋子 西成彦  熊本子どもの本の研究会

読んだことがあるような気がしていたが、未読だったみたい。登場する人物がすべて大好きな人たちなので、わくわくしてしまった。1993年に熊本子どもの本の研究会10周年記念事業で行われた鶴見俊輔の記念講演、谷川氏と工藤氏の対談、それに谷川氏、佐野氏と西氏の鼎談などを集めて一冊にまとめたもの。

鶴見俊輔の話には神谷美恵子や乙骨淑子が登場する。鶴見さんは神谷氏に子供時代に会ったことがあるという。鶴見が15歳、神谷が22歳。当時の鶴見氏はとんでもない不良少年で手が付けられない子だったのだけれど、神谷氏は、そんな鶴見少年と、まったく同じ目線で対等に話をしてくれたという。話題はヨハンナ・スピリ。上のものが下の者に話すような態度ではなかった、それが鶴見氏には非常に珍しい体験で、忘れることができなかった、という。

彼女はもう死んでいますが、彼女の全生涯を考えてみますと、やはりあれは、一種の聖者だったですね。人殺しをした人間にも同じ目線で話すことができる人がいるとすれば、それは偉い人です。自分の子供に対して偉そうに話をする母親がいるとすれば、これはよくない。子どもと同じ目線で話をすることができたほうがいい。美恵子さんはそういう人だったんです。(引用は「神話的時間」鶴見俊輔 より)

と話す鶴見氏もまた、神谷氏のように、人と同じ目線で、対等に話をしたいと願う人だった。どんな無名の市井の人に対しても敬意をはらい、学び取ろうとする謙虚な人だった。もし、子どもが信頼できる大人がいるとしたら、それはそういう人なのだと思う。そんな大人になれたらいい、なれなくても、自分はそうなりたいと願っている、ということだけは忘れないでいたい、と私も思う子どもだった。そのことだけは、覚えている。

零歳の子供に話しかける時、子どもは無文字社会にいる。それは、例えば旧約聖書が成立した時代に、ほとんどの人が文字を知らなかった、その時代と同じ体験である。子どもは親が教えた話をまた親に教えることもある。だとしても「それは私が教えたことではないか」とは言わなくてよい。その話は二人の間であっちからこっちへ自由に動くものであり、誰のものとも考えられずに共有されている。それが旧約聖書の時間であり、神話的時間である。子どもとともに、我々はそんな神話的時間を過ごしている。それはとても愉しい、人間が生きる上でとても重大なことである、と鶴見氏は言う。

確かに。ごく小さな子どもと向き合う時間は特別であった。彼らの目線で見ると、世の中は全然違って見えたし、交わす言葉も新鮮であった。あの時間は確かにかけがえのないものだったし、それまで生きてきた中にはない経験だった。たぶん、とても豊かな時間だったのだと思う。たいへんだったけれどね。

子供や、ごく普通の、あるいは弱かったり、取るに足らないとされているような人を一人の人間として認め、受け入れ、対等に向き合うことで、大人はきっととても大きなものを受け取ることができる。社会で称賛されたり、大きなお金を稼ぎだすことよりも、もっと貴重なもの。そういう話を、鶴見氏はしているのだと思うし、神谷氏はそういうもののために生きた人なのだと思う。子どもの本を読むことも、そこにきっとつながるのだと私は思う。

谷川俊太郎と工藤直子、佐野洋子、西成彦の対談は面白かった。そのころはまだ佐野さんは生きていて、谷川と仲良し夫婦だったし、西さんだって、まだ伊藤比呂美と夫婦だったんだよなあ、と遠い目になってしまった。時間が経つってこういうことなんだ。ふう。