私たちには物語がある

2021年7月24日

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「私たちには物語がある」角田光代 小学館

 

角田光代の、本を読んだ感想文集。書評じゃなくて、感想文なんだそうだ。それも書きすぎる部類なんだそうだ。確かにそうかもしれない。それぞれの本について、情熱を込めて、どんなふうに読んだか、何を感じたか、それがどう自分に影響したか、ものすごく一生懸命、語ってある。そして、どの本も読みたくなるから困ったもんだ。
 
角田さんは本が好きだったはずなのに、大学に行ったらクラスメイトは自分の五十倍本を読んでるような人たちばかりだったそうだ。それにショックを受けたから、そういう人たちとは友達にならないようにしたという。物書きになったら、同業者や編集者が話す作家もタイトルもちんぷんかんぷんだったという。でも、そういう人たちに追いつくために無理に読もうとは思わない、と彼女はいう。「私を呼ぶ本を一冊ずつ読んでいったほうがいい。」と。
 
そうだ、本は人を呼ぶ。図書館の書棚で、ひっそりと私に合図する本に、私は何度会ったことか。ぼんやり背表紙を眺めながら歩いていて、ふと目があった本を手に取ると、ああ、この本は私を待っていていてくれたんだなあ、と思うことが何度もある。そんな「呼ぶ本」との出会いが、この本には詰まっている。
 
小2の時、なんてつまらないんだ、と放り出した「星の王子さま」に高2で出会って、なんてすごい本なんだろう、でもどこかで読んだ気がする、と思った話が載っていた。小2の時にその本をくれたおばは、もう亡くなっていたけれど、九年の時を経て、おばから贈りものを手渡された様に感じたという。つまらない本は、今、つまらないだけかもしれない。年月をへて読み返した時に、驚くほどのみずみずしさで迫ってくる本もある。遠い昔に死んでしまった人の生き生きとした魂が、いきなり心に迫ることがある。だから、本ってすごい。
 
アーヴィングなんてややこしくて登場人物がやたら多くてわかりにくくって苦手だ、と思っていたのに「ホテル・ニューハンプシャー」を読んだら止まらなくなり、唐突に至高感に襲われた話もある。「こんなにおもしろいものが世界にはある。本が、物語がある世界とは、なんとすばらしいのだろう。私はなんとすばらしい場所で生き、なんとすばらしいものを享受しているのだろう。」と泣きたくなったという。ああわかるわかる、と思う。私も「ホテル・ニューハンプシャー」は二度読み返したっけ。映画まで見たっけ。幸せだったっけ。
 
角田さんは佐野洋子さんのファンである。ときどき登場する佐野さんへの賛辞は、読んでいて涙が出そうになる。
 
本音は古びない。佐野洋子はぶれない。
 
もうどんどん書く。王さまは裸だと叫ぶ少年のような勢いで、書く。
 
私たちは本音というものに慣れていない。本音を聞くことはもちろん、言うことにも。私たちはいつのまにかだれかから、本音を言ってはならないと教わり、あるいは自力で学び、それを実践して生きている。(中略)
佐野洋子はまるで私たちの身代わりのように本音で考え、何をもおそれず本音で書いている。本当のことを書かれたからと言ってだれもこの人を糾弾しない。必要とされないのが老人とはどういうことかとくってかかったりしない。本音にたじろぐ前に、納得し、かつ、自分を疑ってしまうからだ。私は一度でも自身の目で見、自身の手で触れたことがあるだろうか。自身の本音の言葉で考えたことがあるだろうか。
 
角田さんでさえ、そう思うのか、と私は胸をつかれる。佐野洋子は古びない。佐野洋子は、私たちに本音を突きつける。私たちは、いつまでも、佐野洋子の言葉に心を震わせ、勇気を奮い立たされる。自分の中の本音と向き合う勇気を持たされる。
 
オードリーのオールナイトニッポンで、若林と西加奈子が話していたのを聞いたことがある。角田さんは自分のことがわかってないねん、と西加奈子が嘆く。あの人は、日本の角田さんだよ、文学界の宝だよ。すごい人なんだよ。だのに、端っこの方でひっそりしてはる。自分がすごい人だってわかってないねん。
 
角田光代は、本の世界で、至高感に酔いしれて、うっとりする少女のような人でもある。だからこそ、凄い。この人の目を通して語られる一冊一冊の本は、キラキラと光って魅力で一杯になる。だからといって、それを私が読んだら同じように魅力的かどうかはまた別問題である。受け取る側にも、度量というものがあるからね。
 
それにしても、読みたい本がまた増えてしまった。この世には、読みきれないほどの本があるというのに。
 
           (引用は「私たちには物語がある」角田光代より)

2016/11/15