私の名前はルーシー・バートン

私の名前はルーシー・バートン

131 エリザベス・ストラウト 早川書房

原因不明の体調不良で九週間に及ぶ入院をした主人公のところに、長いこと会っていなかった母親が来て、五日間を過ごす。その間の不器用な会話から、彼女の過去が浮かび上がってくる。

家族四人がガレージのようなところに住み、たとえ貧乏であっても耳の後ろに垢を溜めてよいわけではない、いくら何でも石鹸くらいは買えるだろう、と教師に言われるような生活。テレビもなく、冬は寒さに震え、愛情をかけられることもなかった子ども時代。教室に残れば温かかったので、そこで宿題を済ませ、本を読んだ。そして特待生プログラムに選ばれ、大学に行き、いくつかの恋愛を経て結婚し、子どもも産んだ。そして、病気。

飛行機に乗ったのも、タクシーに乗ったのも初めてではないかと思われる母。費用は夫が出した。ずっと椅子に座って眠る母。言いたいことが言えたわけでもない、愛情を確かめ合ったわけでもない。それでも、心の奥に湧き出す思いがあって、そして故郷を懐かしく思い出しもする。

それから彼女は退院して子供たちの元へ戻り、人生においてまた別の選択を行いもする。それは、自分で選んだことなのだ。

娘たちが感じる痛みを、私はわかっているのだろうか。あの二人がどういうかはともかく、私はわかっているつもりだ。しかし子供が胸に抱きしめる痛みがどれほどのものであるのか、私にも身に染みて覚えがある。泣くに泣けないほどの大きな願いがあって、この痛みを一生引きずるということもわかっている。心臓が鼓動するたびに締めつけられるようになって、その痛みを抱え込む。私の痛み、私の、私の。

(引用は「私の名前はルーシー・バートン」より)

子供へのこの一文に、私も胸を締め付けられた。私にも覚えがある。そして、子どもがどういおうと、私は私なりに分かっているつもりでもあるし、子どもの胸に抱えられた痛みは私の痛みでもある。けれど、私は私であって、私のために生きている、私が人生を選ぶのだ。

私は老母と月に一度、三日間を過ごす。そこでの会話は時に心を消耗させるが、また、得難い時間でもあると同時に思う。心を締め付けられる思い、ぶり返す痛み。ただ私にはルーシーのような故郷すらない。

ごく普通のどこにでもいるありふれた女性の心のうち。それがこんな風に描かれること私は胸打たれる。人は皆、同じように価値があり、同じように重みをもって生きている。誰もが大切でいとおしい、と思えるような小説である。