笑い神 M-1、その純情と狂気

笑い神 M-1、その純情と狂気

2022年12月18日

156 中村計 文芸春秋

M-1グランプリが好きである。第一回目から全部、見ている。ブログにも2007年2008年にそのことを書いている。当時はまだ関東にM-1はそれほど浸透していなくて、その話ができる相手がようやくできたことを喜んでいたりしていたっけ。

子ども時代、ドリフの番組を一度も見せてもらえなかったし、お笑い番組なんかで笑っていると「くだらない」と父にテレビを切られたものだ。笑うということが無駄でくだらなくて役に立たないものだと私の育った家庭では言われていた。だからこそ、大人になって笑いにはまった。初回からのM-1のビデオを借りてきて何度も見たし、NGKにも行った、寄席にも行った、関西在住時はお正月の新春お笑いステージも見に行った、東京に戻ってからはルミネにも通った。母親がそんなだから、家族も笑いに詳しくなったし、娘のピアノの発表会がM-1の日程と重なると一緒に嘆き、発表会終了と同時に走るようにして家に帰ってテレビに飛びついた。今でも娘は住居地から新幹線に乗ってまでお笑いライブに出かけていくらしい。お笑いの早期教育の効果だろうか(笑)。

この本は、M-1に翻弄され続けた笑い飯を中心に、この大会に関わったさまざまな人たち…芸人や、審査員、スタッフ、テレビマンたちなどが描かれている。最初からこの大会にドはまりしていた私には既知の情報も多々あったが、最後の方は知らないこともたくさん書かれていて胸が熱くなった。M-1という大会があったからこそ、漫才という芸能がここまで生き残り、強い力を持ち続けてきたのだし、お笑い芸人がこんなに世に出たのもそれが原因である。M-1だけが漫才の形ではないし、あれは特殊な条件下での大会ではあるのだが、そこを通り抜けなければ漫才師たちは生き続けられない。出場するにしろ、放棄するにしろ、勝とうが負けようが、M-1なしに漫才も芸人も語ることはできない。

と書いている今日は、M-1グランプリ本大会の日である。もう敗者復活戦は終わったのかな。テレビを持たない娘に請われて録画は撮ってある。お正月の帰省時に一緒に見ることになるだろう。本大会は、きっと先に見ちゃうけどさ。

M-1は人間ドラマでもある。人が一つの目標に取りつかれ、死に物狂いになるさまを私たちは見ることができる。それも、大笑いしながら、である。なんと幸せなことか。でも、それを見せる芸人たちは魂と体を削っている。それがよくわかる本である。とても面白かった。