結局、自分のことしか考えない人たち

結局、自分のことしか考えない人たち

2021年7月24日

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「結局、自分のことしか考えない人たち自己愛人間とどう付き合えばいいのか サンディ・ホチキス 草思社

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カウンセラーが語るモラルハラスメント人生を自分の手に取り戻すためにできること」谷本恵美 晶文社

長いこと、夫の愚痴を私に言い続ける人がいます。延々と十年以上、愚痴を聞いています。それによると、夫は極悪非道の人ですが、別れる気配はありません。今までに私が考えてみた助言も役には立たず、関係性は何一つ変わっていません。毎回、ひどい目にあわされた話を聞くわけですが、新しいエピソードもあれば、毎回登場する定番のエピソードもある。結局、同じパターンの「被害」が続いているということなのでしょう。

彼女の話を聞く限りでは、相手が限りなく悪く、耐え忍ぶ妻は気の毒でならない。けれど、それを一方的に聞かされ続けるのも、苦行ではあります。と、気軽に書いているけれど、愚痴を聞かされた後は、苦いものを無理やり呑みこんだような気分になり、やりきれない思いに私自身も私配されてしまう。これは何とかならないかと思わずにはいられません。

というわけで、読んでみたのが上記の二冊。いろいろと参考になりました。
「結局、自分のことしか考えない人たち」というのは自己愛人間のことを指すのだそうです。彼らは、恥を知らず、常に歪曲し、幻想を作り出し、傲慢な態度で人を見下し、妬みの対象をこき下ろし、他人を平気で利用し、相手を自分の一部とみなす。様々な実例があげられていて、なるほど、こういう人っているよな、と思います。自分の「恥」の意識を受け入れることができないので、すべてを他者のせいにして、恥をなすりつけてしまうのです。例の愚痴の対象の夫もそういう人なのだろうと想像がつきます。

でも読みにくかったなあ。翻訳が悪いということは確かです。これを下訳として、こなれた日本語に直したら、もっと良い本になったに違いありません。それから、問題になっている自己愛人間の罪を断罪するという書き方にも今ひとつ馴染めません。だって、カウンセラーが書いているのでしょう?カウンセラーって、人を断罪する立場ではないのではないかしら。と、つい思ってしまう私。こうやって善悪で物事を分けてしまうのって唯一神教的発想だよなあ、とふと思ったりもします。

自己愛人間といわれる、どうしても自分のことしか考えない人たちは、では、そうやって他者を傷つけ、自分のことだけを考えていれば、彼ら自身は幸せなのかしら、と私は疑問に思うのです。彼らはまた、そうやって自分のことしか考えられない自分というものを抱えて苦しみ、なぜ、自分はこんなに人に理解されないのだろう、受け入れて貰えないのだろう、と困り果て、不安に思っているのではないか。そういう彼らの側に寄り添って、そこからどうやって抜け出すのかを一緒に考えるのが、カウンセラーの役目というものではないのかしら、と私は思ってしまうのです。

しかし、そういった彼らにつけこまれた被害者は、もっと気の毒です。被害者の立場になってみれば、彼らからどうやって逃げ出せばいいかは死活問題です。という視点から見れば、この本は役に立つ。なるほどなあ、と思いつつ、次の「カウンセラーが語るモラルハラスメント」に移ります。これは、加害者の人間性に焦点を当てた前の本と違って、行われる加害行為と、それを受ける被害者がどうすべきかということについて書かれた本です。モラルハラスメントをしてしまう人が、自己愛人間かどうかはあまり大きな問題ではない。いろいろな理由でモラルハラスメントは起きるけれど、原因はともかくとして、それに対して、被害者がどのように自分を取り戻せばいいかが被害者に寄り添って書かれています。

この本ではっとしたのは、結局のところ、加害者についてあまり考えてはいけないのだ、という指摘がなされていること。加害者も苦しいのだろう、とか、そこから彼がどのように抜け出せばいいのだろう、とまさに前の本を読みながら私が考えてしまったようなことにとらわれている限り、モラルハラスメントの罠からは逃げられないのだという指摘がなされています。たとえ加害者に気の毒な面があったとしても、いま、それを考えている限り、あなたはそこから逃げ出せませんよ、とあるのです。加害者の人間性を分析したり、彼に自分がやっていることを気が付かせたり、反省させたりしたい、という欲求は捨てましょう、とはっきり書いてある。これは発見でした。そう考えると、「結局、自分のことしか・・」で自己愛人間がばっさりと断罪されていることも意味あることだったのかもしれません。なるほどね。

「結局、自分のことしか・・」には、彼らは変わらない、なぜなら変わることを欲していないからだ、とありました。こちらの本にも、変えることを求めてはいけない、とあります。そうなのか。そうなのだなあ。ということは、そういう人たちは、一生、そのままの自分を抱えて生きてくのかなあ。

人間って、自分で変わろうと思わない限り、変わりませんからね。それにしても、自己愛人間も、モラルハラスメントの加害者も、表面上は立派なオトナなのに、心のどこかが子どものまんまなのだということはよくわかります。言動に一貫性がなく、その場しのぎなのに、それに気がついていない。責任を他者になすりつけて、決して自分を顧みない。それって、幼児のあり方です。

そう。おとなになるって、とても大変なこと、難しいことなのだな、と思います。なんて書いている私も、ちゃんと大人になれているかどうか。

二冊読んだら、なんとなく問題が整理できた気がします。

自己愛人間に支配されている、あるいはモラルハラスメントを受けている「被害者」の側も、だんだんに「加害者」に同化していってしまい、どちらが被害者なのかわからなくなってくるという指摘もありました。これもまた、実体験に照らし合わせて、ものすごくよく分かるのです。

たしかにそうです。実際のところ、私はその人の夫の愚痴を聞かされることに、大きな疲労を感じます。そして、何をアドバイスしても「あなたは自分が幸せだからわからないのよ」「あなたはそれができるからそう言えるのよ」などという彼女の反論に、ひどく傷つきます。だのに、聞いてあげなければいけないのではないか、私ができることをしてあげなければならないのではないか、彼女をうっとおしく思うのは私が冷たいからではないか、と罪の意識にとらわれることすらあります。それって、私も、その構図の中に組み込まれているということかもしれません。彼らは変わらない、なぜなら変わることを欲していないからだ、という指摘は、彼女と私の関係性にも応用出来るのです。

であるのなら。私は彼女と自分との間に境界線を設けなければならない。それは、彼女の問題であって、私の問題ではない。そして、私自身は、その問題で困る必要もない。そこを、自分の中できちんと確認すべきなのです。

結局のところ、この二冊を読んで、私はそんな結論にあらためてたどり着いたのでした。

2013/5/8