誰のために法は生まれた

誰のために法は生まれた

2021年7月24日

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「誰のために法は生まれた」木場顕 朝日出版社

 

ローマ法を専門とする大学教授が、中高生を相手に、法律の授業を行う。先に、「近松物語」「自転車泥棒」などの映画を見たり、プラウトゥスの喜劇やソフォクレスの悲劇のテキストを読んだり、最後には判例まで読んだ後に、レクチャーと意見交換が行われる。中高生相手に、あまりに高度じゃないか・・・と不安になるものの、生徒たちは果敢に授業に挑み、活発に意見を交わし、多くを得ていく。これは、すごい。
 
実際の授業では、本当に映画を見ているし、テキストもちゃんと日数をかけて読んでいるのだが、本だとあらすじだけがざっと紹介されて、すぐ授業に入るので、読者は分が悪い。これは、中高生に負けているなあ、と何度も挫けそうになる。本当は、読む側も、映画をちゃんと見たり、テキストも時間をかけて読み込んでから、本書にあたったほうがいいのだろうけれど。中高生を相手にしているけど、これ、内容としては大学で行っても、ここまでちゃんと議論が交わせるかどうか。
 
集団から個を守るための占有。絶対にやってはダメなこと。優しいとは、相手の自由を尊重すること。読み終えて、断片的に、色々なキーワードが残っている。私、法学部卒で、法とは何か、をちゃんと学んだはずだったのになあ。ものすごく新鮮に読めてしまった。古典ってすごい。人って、何千年経っても基本的なところは変わらない。それを改めて、きちんと確認できた気がする。
 
最後に、木場顕が語った言葉。印象的だったので、引用する。
 
 人間の社会というものは歴史を持っていて、われわれはやはり、自分が死んだあとのことはもうどうでもいいとか、そういうふうに考えるべきではない。死んで生まれて死んで生まれて、世代を積み上げていく。永遠に継承していく。忘れない。一からやり直していると、ちっとも進歩がない。
 ということはどういうことか。世代を超えて、生死を超えて、連帯していくということです。これがさらに意味することは、死者に対して、そのそれぞれが、かけがえがない存在だったということを意識してやるということだ。忘れずにね。死者に対して、尊重するということだね。そして積み上げていく。
 だから学問の世界でも、今までの蓄積の上に立って、自分がやっていることなんかちっぽけなことだけれども、それでもなんとか積み上げていく。すごくいいものが過去から積み上がってきているわけだから、これをなんとか次につないで、バトンタッチして、バトンタッチして・・・こうやって生死の境を乗り越えていく。これがないと、社会になんて、なんの価値もない。こういう中でやっと、政治とかデモクラシーみたいな考え方を獲得しているわけね。それが文化ということです。われわれは百パーセントの可能性を持っているけれども、ふんふん、可能性を持っているよ、とサボっていいわけではないので、生死を乗り越えて積み上げるということはとっても大事なことだ。
 
                 (引用は「誰のために法は生まれた」より)

2019/2/8