遠慮深いうたた寝

遠慮深いうたた寝

10 小川洋子 河出書房新社

「掌に眠る舞台」以来の小川洋子。これは小説じゃなくてエッセイなので、小説の中では摩訶不思議な世界が広がる小川洋子さんも、さすがにリアルでは普通の世界に住んでいるんだなー、と思いきや、いつのまにか、なんとなくふわふわと小川洋子ワールドにおちいっていくような。やっぱりこの人はいいわー。

これは様々な機会に書いたエッセイを一冊にまとめたもの。神戸新聞に連載している、題名と同じタイトルのエッセイが中心になる。書かれた年も様々な、ごく短いエッセイがたくさん収録されている。

印象に残ったのは「いつか終わる」という二ページほどのエッセイ。小川洋子さんは野球が好きだ。サッカーやバスケなら時間が来れば試合は終わるが、野球はいつ終わるかわからない。しかも、点数に上限もない。最後まで見届けられない時、無事に試合は終わるのだろうか、と心配になる。永遠に終わらないかもしれないスポーツに縛られた選手の恐怖を思って背筋が寒くなる。しかし、いつの間にか試合は終わっていてちゃんと勝ち負けが決まっている。野球の神様が、そろそろこのあたりで、というしかるべき時に決着をつけてくださり、選手も観客も永遠の恐怖から逃れられたことに感謝せねば、と彼女は言う。

 世の中の、すべてのことはいつか終わる。恋人との楽しいデートも、夫婦喧嘩も、つまらない仕事も、病気の苦しみも、本人の努力とはまた別の所で、何ものかの差配により、終わりの時が告げられる。
 だから、別に怖がる必要などないのだ。どっしり構えておけばいい。終わりが来るのに最も適した時を、示してくれる何ものかが、この世には存在している。その人に任せておこう、そう思えば、いつか必ず尽きる寿命も、多少は余裕を持って受け入れられる気がする。
  (引用は「遠慮深いうたた寝」小川洋子 より)

もう一つ心に残ったのは「秘密の友情」である。ラジオで未来に残したい文学遺産を紹介するコーナーを受け持った彼女は、次の月に取り上げる本をスタッフと話し合って決める。その時間が一番面白いという。

ある時、「古事記」と「エルマーのぼうけん」を取り上げた。エルマーは冒険の途中で棒つきキャンデーでワニを誘って数珠つなぎに並べて川を渡る。それは、古事記の因幡の白兎の物語とよく似ている。また、ある時は山本兼一の「利休にたずねよ」と伊丹十三の「女たちよ!」が並ぶ。利休はどんな権力におもねることもなくひたすら美を追い求めて、命さえ惜しまなかった。伊丹十三はまがい物を嫌悪し、本物しか受け付けない確固たる価値観を示す。水差しや茶入れを畳の目ひとつ動かすだけで茶室の空気をがらりと変えた利休と、スパゲッティの茹で方ひとつに人生が現れ出ると書いた伊丹十三。この二冊が並ばなければ、二人の相似に気づかなかったかもしれない。リスナーが飽きないように、できるだけ同じタイプの作品が続くことを避けて選本しているのに、選ばれた本は彼らなりにつながりあう。本の世界には想像もつかない摂理があって、秘密の友情をはぐくんでいる。そう彼女は指摘する。

これは本当だ。私も、色合いの違った作品を続けざまに読んで、その思わぬ相似性や、根底に流れるおなじ息遣いに驚くことがある。本たちは、書かれた時代や場所をこえて、ひそかにつながりあい、目配せしあい、うなずき合っている。

この間、宮田珠己の「アーサー・マンデヴィルの不合理な冒険」を読んで、唐突に「バラとゆびわ」を思い出した。ブログには文体が似ている、という書き方をしたが、文体だけでなく、何か底に流れるもの、世界へのまなざしのようなものが似ているのかもしれない。ところが、だ。それからしばらくして宮田珠己氏本人が「ときどきこういう児童文学を読みたくなる」と「バラとゆびわ」の表紙写真をツイートしていたのだ。驚いた私は思わず「宮田さんの『アーサー・マンデヴィルの不合理な冒険』を読んで『バラとゆびわ』を思い出してました。」とリツイートした。すると「なんと、偶然ですね。似てますかね。」とお返事が。おお!こちとら、宮田氏がまだ若い無名な会社員で、会社員としての正当な権利や正当でない権利を行使して休暇を取り、世界を旅してまわっていた頃からの筋金入りのファンである。嬉しいじゃないの。で、このブログの「アーサー・マンデヴィルの不合理な冒険」の感想を思わず送り付けたら「かなり嬉しいです」とまたまたお返事をもらってそりゃもう嬉しかったのである。

「バラとゆびわ」と「アーサー・マンデヴィルの不合理な冒険」は作者本人にも読者にも内緒でひそかな友情をはぐくんでいた。それを、私と宮田珠己は偶然にも見つけてしまったのだ。そして、そのことを、小川洋子の「遠慮深いうたた寝」で確認できたのだ。この三冊の深い友情よ!

と思わず思ってしまうようなエッセイであった。本を読むことは、世界にたくさんのつながりがあり、ひそかな友情があふれていることを知ることでもある。それは、なんと豊かな行為であることか。