風天 渥美清のうた

風天 渥美清のうた

2021年7月24日

59  森 英介  文春文庫

亡くなった義母は、俳人であった。「私は無学だから」と口癖のようにいっていたけれど、教養とは学歴だけれは計れないものだということを、私はこの人から学んだ。たった十七文字かそこらで何が言える、と思っていた私だったが、義母の俳句には、その人となりが感じられた。我慢強さ、他者への心遣い、潔さ、孤独と諦念と、少々のいたずら心。俳句は、その人を、確かに表す優れた文学表現であると知った。俳句というものの奥深さを、私は義母から教えられたのである。

渥美清は、言わずと知れた寅さんである。浅草の舞台芸人から、個性派俳優を経て、最後は寅さんそのものとなった。没後15年も経つと、さすがに知らない人もいるだろうが、あの頃は、日本中の誰もが彼を知っていた。あの特徴ある風貌で、どこへ行っても、彼は寅さんと呼ばれただろうし、また、彼自身も寅さんとして人生を全うしようとしていたのだろう。

そんな渥美清の、たったひとつの趣味が俳句だった。句会では、「会計をやってます渥美と申します」と自己紹介したという。寅さんでない、俳優、渥美清でもない、本名の田所康雄になれるたったひとつの場所が句会だったという。

お遍路が一列に行く虹の中
花冷えや我が内と外に君の居て
好きだからつよくぶつけた雪合戦
赤とんぼじっとしたまま明日どうする

(「風天 渥美清のうた」より引用)

渥美清は、山頭火や尾崎放哉の役をやりたいといい、実際に企画を立てていたという。しかし、断念した。あまりにも寅さんになりすぎて、それ以外の役をすべきでないと自制したのかもしれない。ひとつの役に、なりきりすぎて、それに人生を支配される人であった。

渥美清は、若くして肺を患い、大きな手術を受けた人であった。しかも、亡くなる十五年以上も前に肝臓癌になり、以後は、誰にも知らせずに、何度も入院手術を繰り返し、抗癌剤治療も受けていたという。最後は、肺に転移して亡くなったが、その事を、荼毘に臥した後、遺族が発表するまで、だれも知ることはなかった。渥美清の息子は、幼稚園の頃に、「俺はもうすぐガンで死ぬんだから、母親のことをしっかり聞け」と言われていたという。実際に亡くなったのは、それから十五年も後の事だったが。

渥美清の俳句には、孤独の影が強い。まっすぐに対象を捉え、気取ったり技巧を凝らすこともせず、自由だ。この人の中にある、寅さんではない部分、そして、死を見つめつつ過ごしていた年月が、伝わってくるような気がする。

2011/6/22