養老先生、病院へ行く

養老先生、病院へ行く

2022年2月13日

23 養老孟司 中川恵一 エクスナレッジ

「世間とズレちゃうのはしょうがない」以来の養老先生である。最近は対談や共著が多い。お歳だからなあ。ましてや今回は、養老先生が体調を崩されて入院されたお話だから、無理は禁物なのだけれどね。

東大の医学部で教えていた人なのに、医者ぎらいの養老先生。健康診断もろくに受けていないという。そもそもが東大を退官したのは、定年前の57歳。肺がんを疑われて、もし肺がんなら、死ぬまでの間、もう好きなことだけやっていたい、ついては虫を取るだけで生きていたい、と思ったのがきっかけだという。でも、それは肺がんじゃなかったらしい。最近CTで確認したら、炎症があったらしいあとは残っていたけど。

そんな養老先生だが、体調が悪く、何もする気がしない、体重が減る、毎日寝てばかりいる状態になって、ご本人はともかく、奥様が心配して病院へ行ってくれとうるさかったのでしょうがない。本来は七月に受診するつもりだったが、七月にあれこれ予定が入ってしまったので、少し早めて六月中に…と教え子の東大病院の中川恵一医師に相談して受診した。そうしたら、心筋梗塞が発見されて「そのまま動かないでください!」と言われて、即、入院。その日のうちにカテーテルを受けたという。七月まで受診を待っていたら、もうこの世の人ではなかったかも、というから恐ろしい。養老先生は、これが済んだら帰りがけに山の上ホテルでてんぷら食って帰ろうっと、と思っていたそうだ。山の上ホテルのてんぷらはうまいからなあ。

「身体巡礼」で養老先生は「死は二人称であり、一人称の死体は存在しない。」と書いていらした。印象深い言葉なので覚えている。人は、自分の死体を見ることはできないので、一人称の死はないに等しい。三人称の死体、つまり赤の他人、知らない人の死体は「ああ、死んじゃったんだな」と思うだけで、それほど大きなインパクトにはならない。一番問題なのは二人称の死、つまり大事な家族や愛する人など、自分にとってかけがえのない存在の人の死である。そういう人を失っても、まだ心が残っていて、なかなかその死は受け入れられないし、死体は死体として認知されず、いつまでもその人のままでいる、という話。養老先生は、妻にとって自分は二人称の人間なので、さすがに悲しませたり困らせたりするわけにもいかないので、仕方なく受診を決意したのだという。

医者ぎらいで医学に不信感を持つ医学部の元教官。変人だよね。でも、養老先生の言いたいこともわかる気がする。機械的に診断され、治療されることへの強い違和感。それでも、心筋梗塞を見つけてもらったのは良かったし、入院中に白内障の手術も受けて、眼鏡なしで本が読めるようになったのはありがたい、と素直に言う。だとしても、医学への考え方は基本的には変わらない、という。中川恵一氏は、「それは本心か?」とちょっと疑っているみたいだが。

養老先生には「まる」というかわいがっている猫がいたのだが、その猫が最近19歳で亡くなった。まるの様子が悪ければ、何度でも獣医に連れていき、医学的に非常に手厚く面倒を見たというからおかしい。養老先生にとって、まるは二人称であるからね。彼にとっては矛盾ではないのだね。

入院中にピロリ菌と大腸のポリープが発見され、どちらも治療しなければがんになる危険性が残ると言われたが、それらの治療はきっぱりと拒絶された養老先生。養老先生らしい判断だ、と感心する中川恵一医師。医師と患者は相性だ、という養老先生。まあ、そうだよね。どんな一生の終え方をするかは、その人の自由な判断だものね。

私は養老先生の虫のように、最後までこれをやっていたい、というものがあるのだろうか。二人称ということについては、ひどく考えさせられる本ではあった。

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サワキ

読書と旅とお笑いが好き。読んだ本の感想や紹介を中心に、日々の出来事なども、時々書いていきます。

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