高野長英(鶴見俊輔集 続3)

高野長英(鶴見俊輔集 続3)

120 鶴見俊輔 筑摩書房

「昭和を語る 鶴見俊輔座談」以来の鶴見俊輔である。彼を信頼し、尊敬しながら、学者としての功績を実はほとんど知らない私である。全集はあまりに多く広範囲にわたり、全貌に迫るには時間がかかりそうだ。が、とっつきやすそうな評伝なら、と手に取った。

高野長英という名は、遠い昔、NHKの時代劇で知ったように思う。鳥居耀蔵という役人に付け狙われながらも、知恵と知識を武器に生きのびる蘭学者という印象だけが残っていた。実際にどんな人だったのか、この本を読んで初めて知ったようなものである。

鶴見俊輔は、江戸後期の高野長英を語るのに、彼の生まれた水沢という土地から始める。遠く平安時代の豪族、安倍氏や清原氏、そして平泉の中尊寺などの話から、安土桃山時代のキリシタンの宣教に至るまでをなぞる。中央の朝廷から蛮族と捉えられ、平泉に都のような美しい庭園を作り出すほどの文化を誇ってもなお蔑まれた地域の人々の屈辱と誇り。キリシタンが禁制となった後も信仰を捨てなかった人々と、ひそかに生き延びた土着の信仰。それらが土地の空気となり、基盤となって高野長英という人間は醸成されていった。

高野長英は、後藤という家に生まれたが、医家である高野家に養子に入り、そこの世話によって江戸、そして長崎へと遊学し、シーボルトの鳴滝塾で蘭学を学んでいる。オランダ語の力量は随一で、大量の翻訳も行ったし、英語も学んだという。塾生たちが日本語禁止の集いを開いたとき、最後まで貫いたのは高野長英ただ一人だったというエピソードも残っている。

高野長英は、渡辺崋山らとともに「蛮社の獄」において弾圧を受ける。漂流民を送り届けようとしたアメリカのモリソン号を幕府が撃退したことへの批判を行ったことが、蘭学を目の敵にしていた、幕府の目付である鳥居耀蔵の憎悪を呼んだのだ。当時無人島だった小笠原諸島に渡航して幕府に反旗を翻す計画をした罪状を捏造され、渡辺崋山は自殺を図ったが、高野長英は投獄される。取り調べの結果、渡航計画には無関係だったと明らかになってもなお、永牢とされる。

単なる町医者だった高野長英は、士分用ではなく庶民用の牢に入る。そこで人望を得て牢名主となり、無宿人や侠客と親交を深め、釈放された彼らのつてをたどって牢外との連絡も取れるようになる。ついに無宿人の一人に火付けをさせて入獄五年目にして脱獄、以後、各地を転々と隠れ歩くのだ。

群馬や新潟、仙台などを経て、彼は宇和島に入る。そこまでの逃亡生活を助けたのは、時に牢名主時代の仲間であり、あるいは蘭学者の弟子たちであった。追手が迫ってきたと知っては次の場所に移り、隠したものは後に石責めにあって体を壊したなどという話も残っているが、迷惑をかけられた怒りよりは、高野長英を助けた、という誇りのような言い伝えが各地に残されているのが興味深い。

宇和島では、藩主が集めるだけ集めたが、いったいどんな内容であるかもわからない大量の洋書を分類し、要点をまとめたり翻訳を行ったりしていたという。つまり藩主黙認のお尋ね者としてかなり安全に暮らしていたようである。が、追手が迫り、宇和島も逃れ、最後は江戸でひっそり暮らしていたが、ついに見つかって捉えられ、打ち殺されるに至った。

逃亡生活の中で残した書物も、本書の中でいくつか紐解いてあるのだが、非常に内容が深く、哲学的で、西洋哲学にも透徹していたことが垣間見える。彼は、実に学者そのものであったのだ。

‥‥というストーリーは、遠い昔の物語のようにもみえるが、鶴見がこの作品を書いたのは1975年。当時、高野長英が隠れ住んだ辺りを訪ね歩いたら、幼少期に家に隠れていた長英を見た、という老人がいてその様子を語ったり、この部屋に住んでいたのですよ、と、まだ残る隠れ家を見せてくれたという。つまり、その時点では、自分の記憶の中に生ける高野長英がいる人たちや、その痕跡が残る場所が存在していたのだ。それを知ると、途端に高野長英という人間が、手を伸ばせば届きそうな、生きた人物として立ち上がってくる。

鶴見俊輔が高野長英を描いたのは、一つには、鶴見自身が、ベトナム戦争のさなか、べ兵連の活動で脱走兵の逃亡を助ける活動を行っていたことが理由となっている。つまり、逃げる側ではなく、逃げるものを助ける側へのシンパシーが根底にはある。もうひとつには、高野長英はもともと後藤家の出であるが、鶴見俊輔も、後藤新平の孫であり、同じ水沢の後藤家に連なる人間でもあるからだ。高野長英と鶴見俊輔は遠戚でつながっている。

高野長英が偉大な人物であったかどうかは、鶴見は特に評価をしていない。ただ、学問を追求したものとして、また、自分が何を求めて生きているのかを考え、実行した近代人として、高野長英をとらえ、描き出している。一人の人間をそうしたフラットな目でとらえ、丁寧に追い、描いた作品として、この本はとても興味深く、面白くあった。ただ、漢文引用が多かったのが、なかなか大変ではあった。