〈子ども〉のための哲学

〈子ども〉のための哲学

2021年7月24日

221
「<子ども>のための哲学」永井均 講談社現代新書

図書ボランティアの特権で、中学の図書室から借りてきた本。面白かった。だけど、これって本当に中学生にわかるんだろうか。筆者は、中学生に向けて書いたと明言しているけど。

子どもの頃からずっと抱いてきた問題を考え続けるのが、子どもの哲学である、と筆者は言う。筆者は
「なぜぼくは存在するのか」
「なぜ悪い事をしてはいけないのか」
の二つの問題を、ずっと抱え続け、考え続けてきた、という。それに対する今現在の彼の考えが、この本に書かれている。

子どもの頃からずっと考え続けてきた問題は、私にもある。物心ついた頃からずっと、だ。それは、
「私がものを考えるとはどういうことか」
「この世があるとはどういうことか」
の二つである。そして、その問いは、実は筆者の持ち続けてきた問題に、非常に近いところにある、と思った。

もちろん、子どもの私は、論理的にどれほど考えられていたかわからない。だけど、当時から私が不思議に思っていたのは、私がものを考えている、ということを考えている私は、私であるが、ものを考えていない私というのはどこにいるのか?というようなことだったと思う。

ものごとを意識している私は、今ものを考えているということがわかっているのだが、例えば眠ってしまって、なんの意識もない、つまり、何も考えていない時の私は、私ではありながら、そういう私を、私は知らない。とすると、その時の私は、私であるのか?また、もし私が死んでしまったとしたら、それは、私がものを考えない、意識がない状態にあるということだ。その場合、眠っていて、意識がなく、「ものを考えていない」私と、「死んでいる私」はどう違うのか。またいつか目が覚める、というところ「だけ」しか違わないのか。だとしたら、ものを考えない、意識しない私は、その瞬間には死んでいるのと同じで、「私」として存在していないのか。というようなことだったと思う。「私としての体を持ちながら私でない状態でいる私」と、「体が失われた、死んでしまった私」のどこが違うの?という疑問だ。

あー、ややこしい。ややこしいけれど、そういう疑問は、中年真っ盛りの今現在の私にも、未だに解けない謎であって、ただ、大人だからね、なんとなくわからないままでもわかったふうな素振りができるようになっただけである。

この世があるとはどういうことか、というのも同じような問題なのだけれど。子ども時代、経験なクリスチャンホームに育った私は、神様がいる、ということは疑ってはいけない真実だと教えられて育った。だけど、小学校中学年ころには、もう、それに対する疑問はむくむくと湧いていた。疑問を感じること自体が罪なのである、悪いことなのである、という価値観の世界に住みながら、その悪いことに浸る、なんとも言えない感覚を、私は未だに覚えている。

もし、神様がいて、神様がこの世を作ったのだとしたら、その神様を作ったのは、誰だ?神様は、どこから来た?そして、神様がこの世を作る前には何もなかったのだとしたら、神様のいる場所は、どうなっていた?何もない、という状態とはどんな状態で、神様は、最初からいた、というのなら、その最初というのは、何だ?最初より前はない、というのなら、その前がない状態とは何だ・・・・と、ずっと考えていたのだ。

そんなことを考えても、なんの足しにもならない。けれど、どうしても考えてしまう。そう思いながら、私は成長し、大人になり、親となり、いい歳になった。けれど、未だに、疑問は私の中にくすぶっている。もちろん、考えは深まり、いろいろな方面に伸び、様々な回答らしきところにたどり着きかけては、また、違う疑問が湧いて来る、という風に随分様相は変わってきたけれど。

哲学ってのは、そういうものだよ、とこの本には書いてある。そして、哲学なんて、なんの役にも立たないし、人にも伝わらない、と。そして、その人の哲学は、その人の死と共に終焉するんだ、とまで書いてある。

ああ、そうか、そうなんだ、と私はしごく納得してしまった。役に立たないことをずっと考えてきたからね。そして、それはめんどくさいけれど、やめられないことだったし、実は面白いことでもあったのだし。今だってそうやって考え続けているのだしね。

2012/3/14